2023.08.31

人種差別との闘いを再考する

8月11日、東京大学でシンポジウム
関東大震災の朝鮮人虐殺から100年 レイシズムと歴史否定を考える〜国連特別報告者を迎えて【主催:東京大学大学院総合文化研究科グローバル地域研究機構 韓国学研究センター 協力:東京大学芸術創造連携研究機構、東京大学大学院多文化共生・統合人間学プログラム、反差別国際運動(IMADR)、プレカリアートユニオン】が開催されました。
シンポジウムにおけるドゥドゥ・ディエンさん(元人種差別に関する国連特別報告者)の基調報告の日本語訳(訳 IMADR)をご紹介します。

人種差別との闘いを再考する

ドゥドゥ・ディエン
2023年8月11日

現代的形態の人種差別に関する国連特別報告者として私が学んだ中心的な教訓は、否定こそが人種差別と闘ううえで最も困難な障壁であるということでした。それは、国の歴史教育や歴史の記述の中に埋もれた岩盤のようです。このような強固な否定は解体されなければなりません。関東大震災における朝鮮人虐殺はこの歴史の否定を説明しています。

そのため、人種主義、差別、外国人排斥と闘うには、新たな戦略を考える必要があります。私たちの行動は、差別や人種差別の起源、仕組み、プロセス、形、表現形式(あからさまなもの、微妙なもの)について議論することにより、もたらされなければなりません。言い換えれば、人種差別と差別の文化的根源に迫る知的戦略が必要なのです。こうした文化的根源を理解することは、人種差別撤廃に向けた法律や法的機構に知識をもたらし、その基礎を提供します。

 1. 多様性とアイデンティティ

差別的な文化や行動の根底には、多様性とアイデンティティという、やや難しい2つの概念が横たわっています。

多様性

多様性という概念は、グローバリゼーションが引き起こす文化的標準化のリスクや、文化的、宗教的、民族的、地域的なアイデンティティへの排他的な忠誠など、極端な形の人間のリアクションに対する答えを提供するものであるという見方がますます広がりつつあります。しかし、多様性という概念には、イデオロギー的、歴史的な意味合いが含まれています。概念的には、多様性とは社会的、文化的、民族的、宗教的な現実や状況における紛れもない事実です。したがって、政治的、哲学的、イデオロギー的な文脈に特有なものです。多様性はそれ自体、倫理的な意味での価値観ではありません。この概念には、18世紀と19世紀の哲学的・科学的思考が色濃く反映されています。

その当時、種や人種の多様性に関する科学的・哲学的探究は、異なる種や人種を階層的に序列化する理論を生み出しました。[i]これらの理論は、人種的、民族的、社会的、宗教的差別の理論を発展させるだけでなく、奴隷貿易や植民地化といった搾取や支配の形態を正当化するための知的枠組みとして、イデオロギー的に哲学的に下支えをしました。この文脈では、多様性は理論的にも実践的にも「根本的な違い」を意味し、人種、文化、文明のヒエラルキーを正当化する解釈の枠組みとして使われました。エスノセントリシティ(自民族中心)の根底にあるのは、まさにこの多様性の搾取です。エスノセントリシティは、歴史的にも、イデオロギー的にも、文化的にも、「他者」の根本的な違い、差別そして不平等として多様性を解釈することによって、常にあらゆる場所で生み出されてきました。アフリカの大湖地域やバルカン半島における最近の紛争は、差別のイデオロギーは今日の私たちのすぐ傍にあるだけでなく、究極的かつ最も極端な形、すなわち「他者」の物理的抹殺であるジェノサイドという形を取りうることを裏付けています。

歴史的に言えば、エスノセントリシティは、植民地人類学の仲介によってこのイデオロギーの継承者となりました。植民地化された人々は、いかなる関係においても、一貫した組織的な国民的、民族的、文化的アイデンティティのビジョンをもたない、あるいはもつことができない民族集団として特別に考えられ、提示され、そして扱われました。植民地時代における「エスニック・グループ」の理論的構築は、文化的(言語、宗教)あるいは生理学的側面に重点を置いており、科学的ご都合主義の匂いがしました。そしてポスト植民地時代には、多様性とエスノセントリシティという概念は、新たな政治的歪曲にさらされてきました。

したがって、エスノセントリシティと多様性は、相反するものでも逆説的なものでもなく、むしろ補完的なものであり、異なる方法で利用され、理解されるべきものです。多様性を差異として解釈することは、単なる歴史的現象ではありません。グローバリゼーションが標準化を推進する力として認識されている現在の状況において、多様性は、現在の民族紛争や移民排斥感情の根底にある、アイデンティティを呼び起こす防御的反応を強化しかねない要因となっています。それゆえ、多様性の促進は、アイデンティティ(民族的、文化的、精神的)に関わる差別や過敏さ、偏狭さを悪化させるために悪用される可能性があります。ほとんどの差別的慣行や理論の中心にあるのは、差異としてのみ理解される多様性という考え方であり、もうひとつのあいまいな概念であるアイデンティティです。この概念もまた、批判的な精査にかけられなければなりません。

アイデンティティ再訪

民族間の関係の歴史全体が、アイデンティティに関する誤解が決定的な影響を及ぼしていることを明らかにしています。アイデンティティという概念のヤヌスのような性質は、それが自己の肯定であると同時に「他者」の否定であることを意味しています。長い歴史的記憶と、あらゆる文明と文化を形成してきた「運動-遭遇-相互作用」という弁証法的不変性に照らせば、アイデンティティ(民族的、文化的、精神的)の新しい感覚を育むことは極めて重要であり、それはもはや偏狭な視野やゲットー的メンタリティに染まるものではなく、プロセス、遭遇、ダイナミックな統合として理解され、受け入れられ、生き抜くものであります。このように、アイデンティティが本質的に内向きとなり、現代のほとんどの紛争が示すように「昨日の隣人は今日の敵」の情況において、アイデンティティを何本もの紐で結ばれ、織り込まれ、常に作り出され、本質的に多層的なものとして提示あるいは「うまく伝える」必要があります。その結果、アイデンティティは、ある民族がギブ・アンド・テイクの弁証法によって他国からの影響を受け、それを変化させ、同化させるという神秘的な錬金術を表現します。つまり、アイデンティティは道徳規範と地域社会の再発見の基盤となるという考えを広めることです。しかしこれは、それ自体の多様性やゲットー的メンタリティが、孤立や排除、乗り越えがたい差異として経験されないように、また差別的な文化と慣習のイデオロギー的根拠とならないように行われなければなりません。あらゆる社会で、そして国際レベルで、統一と多様性の実りある弁証法が受け入れられるようにすることは必要不可欠です。

バイオカルチャー

差別の文化やイデオロギーを根絶するための継続的な戦略として、生物多様性からの基本的な知恵、すなわち、異なる種の存在とその相互作用が生命の源であり条件であること、そしてどの種であれその消滅は生態系にとって致命的であることに目を向けることがあげられます。この知恵を「共に生きる」という平面に置き換えることで、単一性と多様性の弁証法に基づく人間関係の新しいビジョンが生まれ、文化、人民、民族グループそして宗教の異種交配の価値を理解し促進することが、あらゆる社会の存続はもちろん、活力の不可欠な条件となります。文化や文明の対話は、このように「バイオカルチャー」の表現として認識されるでしょう。

多元主義としての多様性

その結果、差別を根絶するためには、多様性を歴史的・イデオロギー的な概念から、多様性と統一性を弁証法的に結びつける価値、すなわち多元主義へと変える必要があります。民族的、文化的、社会的、精神的な多元主義は、特にグローバリゼーションの状況において、あらゆる形態の差別との闘いに不可欠な価値です。多元主義を、多様性の認識、保護、促進、尊重と定義することは可能です。多元主義とは、民族的、文化的、あるいは精神的な特殊性の認識と保護を最も深い意味で表現するものです。そして、ある社会においては、それらの特殊性を超え、超越するような価値観を受け入れることです。この意味で、多元主義とは、多文化社会における安定と調和のための最も強固な基盤を提供する単一性/多様性の弁証法における効力のある価値です。したがって、多元主義の促進は、最も深いレベルで永続的に差別を撤廃するための戦略を構築するうえでの核となる価値となりうる。この精神に基づく世界戦略には、法、教育、情報、コミュニケーションの分野における実践的で民主的に開発された措置と、雇用、住宅、医療、教育など差別が表出する社会の分野への適用によって、価値としての多元主義の促進を伴います。

最終的な分析では、異文化間対話の目的は、人々が互いを知ることを可能にすると同時に、それぞれの権利において認められるようにすることです。言い換えれば、すべての社会と国際社会が解決しなければならない文化的方程式とは、(民族的、精神的、共同体的、あるいはその他の)特殊性の保護と尊重を、それらの特殊性を包含し超越する共有価値の承認といかに結びつけるかということです。

2. 人種差別と差別の文化に対抗する知的戦略

歴史

歴史とは、文化、文明そして民族がそのアイデンティティを確立し、互いの関係を築いてきた舞台です。それゆえ、誤解、対立、友情、敵意など、あらゆるものが起源を持つその歴史にこそ、今、特別な注意が向けられるべきです。記憶を通して、より正確には歴史を長い目で見ることによって、私たちは人種差別と差別のプロセス、メカニズム、表現形式を発見し、その最も遠い起源にまでさかのぼることができます。そして、今ここで必要なことは、すべての民族が、それぞれが個別に、またすべての民族が組織として、歴史が与えた説明、その内容、そこから学ぶべき知恵について、特に自らのアイデンティティがどのように形成されたのか、また「他者」に対するイメージがどのように形成されたのかについて、緊急に再検討を行うことです。

教育

教育と教育制度は、長期的には意識改革を生み出す王道です。そこでは知識、学習、価値観が習得され、認識やイメージが伝達され、定着し、それに応じて何よりもまず、多元主義と対話の原則がしっかりと植え付けられなければなりません。異文化間教育はこの意味でカタルシスであり、個々の民族や文化に自らを批判的にとらえさせ、確信に疑問を抱かせ、障壁を取り払い、偏狭さから脱却させます。ショーン・マック・ブライドの「Many Voices – One World(多くの声、一つの世界)」という見事な表現に集約されている対話と交流の必要性を具体的に表現できるようにするためには、自分の自己イメージと「他者」のイメージを構築し、投影する手段であるコミュニケーションも、同様に異文化間でなければなりません。

経済交流

貿易はまた、多元主義と対話のための理想的な手段であり、それゆえに差別の文化を根絶するための手段です。太古の昔から、あらゆる大陸において、貿易は文化的、芸術的、精神的な出会い、普及、交流の手段でした。したがって、文化と貿易の対立という偽りとはいえ魅力的な理論を越えて、貿易の核心にある交換のプロセスの中心に対話の価値を据えることが重要です。

この文脈では、「近代性」と対立する古風で時代遅れの価値観がその社会のなかに存在し、その影響によって低開発を説明しようとする理論が、明示的であれ暗黙的であれ、新たな差別言説として陰湿に出現していることに注目すべきです。これらの理論によれば、低開発は文化的劣等感の表れです。

成長と発展は、何らかの形の市場モデルや市場思考に対応するものではなく、生活や生き方に対する考え方の「ポリフォニー」を反映したものであるべきです。文化や文明間の対話における問題は、貿易や世界経済に関する交渉の重要な要素であるべきです。文化に根ざした倫理規範は、市場原理がもたらす負の側面を減衰させる手段となりうります。

3. 交流による相互理解

相互理解はしばしば、「他者」への無知や文化的対立に対する唯一で最善の対応策と考えられてきました。しかし、そのような理解は一般的に文化の美的次元に限定され、芸術、音楽、料理あるいは建築など、「他者」の表現形式を楽しむに過ぎません。そのような表面的な知識は、見知らぬ相手のより深い人間的で精神的な価値観や人格の深さへの親密な理解や尊重を必ずしも意味するわけではありません。そのため、例えば、ある国を旅行した人が、翌日自分の国に帰り、休暇中に賞賛した仮面、記念碑、衣装、料理を持つその国から来たよそ者を拒否し、差別するかもしれません。近年の文化的紛争の歴史は、イデオロギー的、政治的、宗教的な理由から、昔からの隣人(個人、共同体または文化)が突然今日の敵として排除され、差別されるようになることを示しています。

注意深く調べてみると、多くの紛争の核心には、民族的、宗教的または文化的な性質を持つ極端な形のゲットー意識があることがしばしば見られます。したがって、知性のレイシズムや差別を根絶するためには、文化、文明、精神的伝統の間の相互作用や相互影響の形態を前面に出し、認識することによって、相互理解を補い、豊かにする必要があります。この相互作用の次元は、これまで十分に研究され、理解され、探求されてきませんでした。しかし、ここにこそ、あらゆる人間関係の根底にある原動力があり、差別の文化や慣習の根底にあるゲットー意識を打ち破る力があります。

IMADRが8月に発行したIMADR通信215号では、「関東大震災と朝鮮人・中国人虐殺〜100年を経て」という特集を組みました。
記事は以下のリンクより公開しております。あわせてご覧ください。

『私たちは何をなすべきか』——IMADR通信215号特集「関東大震災と朝鮮人・中国人虐殺〜100年を経て」より
『75年の記憶——ロマと非ロマの若者 忘却に抗う』——IMADR通信215号特集「関東大震災と朝鮮人・中国人虐殺〜100年を経て」より
『歴史を引き受ける若者たち』——IMADR通信215号特集「関東大震災と朝鮮人・中国人虐殺〜100年を経て」より

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