2024.06.17

Intersectional Feminism #4『わたしもここにいる』ということに意味がある -すみれさん(仮名)にインタビュー

新シリーズ「インターセクショナル・フェミニズム」。その第4弾としてお話を伺ったのは、兵庫県出身のすみれさん(仮名)。大韓民国出身の母親と被差別部落出身の父親のもとに生まれました。日本社会の歴史の中で形成された身分差別(部落差別)は今日まで続いており、兵庫県でも結婚差別、被差別部落地区への居住の敬遠、差別的言動が起きています1

甲子園球場がある兵庫県で生まれ育ったすみれさん。学生の頃は放送部とダンス部に入っていたそうです。

学生の頃の思い出を教えてください。

「スポーツ大会がとても嫌いで、学園祭は大好きでした。授業で印象に残っているのは、年に1回外部の人が講演に来る人権学習です。また、中学生の頃、韓国の芸術団の文化公演を鑑賞しにいきました。今でこそ韓国のポップカルチャーが注目されていますが、幼い頃から韓国人・朝鮮人は差別される存在であると感じてきたため、当時の私は韓国の文化はあまり良いものだと思われていない、そう思っていました。なので、学年全員で韓国芸術団を見に行くと言われて結構嬉しかったのを覚えています。」

現在は研究をしながら、社会運動にも携わるすみれさん。

社会問題に興味を持ち始めたきっかけはなんだったのですか?

「私が高校一年生の時に9.11が起きました。テレビ越しにワールドトレードセンタービルが崩壊していくのを見て、なぜ戦争やこんなことが起こるのだろうと考えました。それから社会問題に少しずつ興味を持つようになりました。また、修学旅行で沖縄に行ったときに、米軍基地を見渡すことができる教会を訪れ、シスターが軍事活動の仕組みを教えてくれました。そこで、日本も関わっていることに気づき、より社会問題に目を向けるようになりました。」

どのようにして研究の道に進んだのですか?

「両親から企業への就職を勧められることはなかったですね。むしろ医者や弁護士など、手に職をつけてほしいと言われました。今思えば、就職差別を受けにくい進路に進んでほしかったんだと思います。成績、親の期待、そして自分のやりたいことが異なっていて、進路はかなり悩みました。その後大学に入り、国際開発や農村問題、都市と農村の格差などについて学びました。自主ゼミのスタディーツアーとしてラオスを訪れた時、ベトナム戦争について具体的に学び、興味を持つようになりました。そしてふと、私はベトナム人の知人がたくさんいることに気づきました。父が部落出身で、ベトナム人も多く働く工場に勤務しています。そこに小さい頃よく遊びに行っていて、なぜ彼らがここで働いているのか不思議に思っていました。でもようやく、彼らがベトナム戦争の影響やその後の社会の変化で日本に来たことを知りました。それと同時期に、在日朝鮮人の学生運動に出会い、日本は植民地支配や差別の問題を抱え続けていることを実感しました。自分の人生が実は誰かの人権を踏みにじり、搾取構造のなかで支えられてきた面があったのではないか、わたしもその構造のなかに織り込まれながら加害と被害の面を持っている存在であると感じ、在日ベトナム人に焦点をあてた研究を始めました。」

日本人といわれることへ違和感を感じたことはありますか?

「昔はそうでもなかったですが、今はとても感じます。在日朝鮮人運動に出会ったからかもしれないです。以前は自分が日本人だと思っていたけど、運動に出会って、どうやら社会や国がとらえいる日本人というカテゴリーに、自分が当てはまらないときがあることに気づき始めました。そこからおかしいなと思うようになりました。」

在日朝鮮人運動についてもう少しお聞きしたいのですが、どのようにして運動に関わるようになったのですか?

「大学の学部生の時にフェアトレードの活動をしていたのですが、その団体の先輩がフェアトレードの運動もしながら、朝鮮人学生と一緒に活動する取り組みをする会に参加していたんですね。その先輩が日本と朝鮮半島に関するフォーラムがあるよと教えてくれました。行ってみると、 自分のことを朝鮮人ですと自己紹介したり、本名で名乗っていたりする人たちがたくさんいて、衝撃を受けたのを覚えています。当時、わたしは朝鮮人というのは差別的な言葉じゃないか、という風に思っていました。しかし、侮蔑的に発せられていた「チョーセン」という言葉に引きづられて朝鮮という言葉までも悪いものと思っていたこと自体が、日本社会が作り出した忌避感であることにも気付かされました。そこから徐々に催しがあった時に参加して、その中で知り合いをちょっと増やしていく。そんな形でだんだん積極的に関わるようになっていきました。現在でも在日朝鮮人の人権団体の会員として関わり、性差別の解消のための活動にも参加しています。どんなにいい大学に入って、ビジネスなどで成功していたとしても差別に遭遇することはあります。社会構造と歴史の中で差別が作られたものであるならば、その歴史認識を共有し、差別をしっかりと解消していく必要があることを、在日朝鮮人運動から教えてもらいました。」

現在、性差別の問題にも取り組んでいると先述していたすみれさん。

ジェンダー問題 に関わるようになったきっかけはなんですか?

「6年間女子校で過ごしていたので、10代の頃は、男性が前に立つ、優先されるということにあまり遭遇しませんでした。家でも、父は確かに 一番権力を持っていたのですが、家事などもしていましたし、家族は女性のほうが多かったので、正直に言うとジェンダー問題を感覚として認識できていなかったと思います。でも、大学進学以降、いろんな生活の場面で、時には社会運動の場面においても、 男性が上のポジションを独占しているのを見て、おかしさを感じるようになりました。ちょうど、私が社会運動に関わるようになった時期は、運動内のジェンダー問題やセクハラ問題に関する議論が同世代のなかでも盛り上がりつつあった頃だと思います。ジェンダー問題に取り組みたいと思いながらも、知識やそれまでの先入観にとらわれて最初は鈍感だったり、戸惑うことも多かったように思います。また、民族運動に出会った当初は自分が捨てた、奪われた民族性を取り戻そうと躍起になっていましたが、その民族性を肯定し、取り戻してくれる民族コミュニティを大事にしたい一方で、性差別という面では批判的な視線も持ち続けなきゃいけないというところに結構悩みました。そうした悩みを経て、ジェンダー問題の解決なくして 民族運動はないと思っています。そして、同じ女性でありながら、どこまでその苦しみや痛みを理解できるのかと自問自答することもしばしばです。だからこそ、学び続けたいし、活動し続けたいです。」

部落のコミュニティの中でもジェンダー問題に取り組んでいるのですか?

「私は、部落で暮らしたことはありません。ただ、父が部落出身で、部落産業に関わっているので、部落のことや自分が部落民であることを忘れることはありませんでした。徐々に社会運動に参加するようになった時は部落と朝鮮というダブルルーツをうまく説明できず、苦悩しました。でも、自分のダブルルーツを話すようになってから、多くの人と出会いました。その中でも、ジェンダーの問題に真摯に取り組む人びと、特に女性たちとの出会いを通して、自分の構成の一部である部落に関しても、自分にできることをしたいと強く思うようになりました。」

マジョリティがともに活動するためには?

「大きな課題ですよね。マジョリティという言葉を『ある問題において被害を被らない』という意味で捉えてほしいですが、最も重要なのは立場性の自覚であると思います。人々が自分の特権を正しく理解していなければ一緒に社会運動をすることはできないと思います。歴史や社会構造を学んで、個々人がどのような特権を持っているのか気づくことが必要であると思います。一方で、立場性を突きつけすぎたことをを反省することもあります。立場性は出発点なんです。異なる人々がどのように一緒に活動するかを考えていくときの出発点だと思います。でも、立場性の議論の使い方を間違えると、『黙れ』と相手の意見を否定することになってしまう。丁寧な会話をせずに、『わかっていない』などと頭ごなしに否定したこともありました。それは間違いであったと今では感じています。マジョリティの言葉に傷ついていた時期に起こったことですが、今となってはもう少し一緒に活動するためのコミュニケーションをとれたのではないかと反省しています。一方、マジョリティのなかには、自分の承認や痛みをマイノリティ運動のなかで解消しようとする人がいますが、自分の傷をごまかさずにしっかり直視して、マイノリティに癒やされるのではなく、自身で癒やせるようにしてほしいと思います。そのうえで、ようやくともに活動できる場をつくれるのではないでしょうか。」

団体内での団結はどのように高められると思いますか?

「 私はどちらのコミュニティでも、お客様感を感じることがあります。例えば、私が現在関わっている在日朝鮮人の組織は朝鮮学校を卒業し、韓国または朝鮮籍を持つ人が大半です。そうした中で、私は文脈的には異端で、あまり朝鮮人のコミュニティとして想定されていない人かもしれません。でも、そのなかに存在する意味や意義があると言ってくださる方たちがいて、参加してきたし、自分もそう思っているので活動しています。それでも10年以上一緒に活動していると、ある程度人間関係も形成されますし、それこそ特権も生まれていくので、 お客様ポジションでなく、自分自身の振る舞いや言動に気を付けるようにしています。私は日本国籍者です。同じ朝鮮人、朝鮮民族としての共通性をすごく大事にしつつも、一方で自分が用いている特権性を見過ごすことはできません。日本の学校の卒業生、日本国籍、複数のルーツを持つことがコミュニティにコミットするときに障壁になったり、アウェイな気持ちを感じている人はいます。そのような人たちがコミュニティに参加したくてもできないときに、私がいることによって『いや、だって私たち朝鮮人じゃん』といえることは、とても意義のあることだと思います。『わたしもここにいる』ということに意味があると思っているんです。部落に関しては、前述したように、私は部落で育ったわけではないので、部落で生きる苦しみや葛藤、豊かな人間関係は知りません。また、現在関わりのあるムラは父の故郷ではないため、自分と直接関わる場所ではないという感覚があり、その点でも疎外感を抱くことがあります。しかしありがたいことに、在日朝鮮人運動と同様に、私も部落出身者で部落差別を受ける可能性がある人だから一緒に活動しようと言ってくださる方たちがいます。今はそうした方たちとともに活動できることが嬉しいです。」

活動を行うなかで葛藤はありましたか?

「朝鮮人に関しては、私は朝鮮人かどうかについてとても葛藤してきました。その一番の理由は運動として前提とされている朝鮮人じゃないからです。例えばダブルで朝鮮人として活動している私の友人は、たいてい朝鮮人の父親と日本人の母親のもとに生まれた人、日本人の父親と離婚した朝鮮人を親にもつ母場合が多いです。これはジェンダーの問題と関係していると思いますが、結局、民族継承の根拠となるのは男性なんですね。つまり、父親が日本人であれば日本人、朝鮮人であれば朝鮮人ということになります。母親の民族は民族たる根拠に乏しいと思われているような気持ちになることがあります。また、私の母親は大韓民国出身で、特別永住者の在留資格ではなく「日本人の配偶者等」の在留資格で日本に暮らしていました。他の在日朝鮮人とは渡日の歴史的背景も異なります。そもそも在日朝鮮人とは、日本の植民地支配に起因して日本に在留せざるを得なかった朝鮮人とその子孫を指すので、私はその定義から外れています。しかし、細かく個人や家庭を見ていくと、歴史的ななかで韓国から来た人たちがたくさん日本の朝鮮人コミュニティにも合流してきました。どこで線引きをできるのか、するべきなのか。このことに返答できる人は実際多くはいないのではないでしょうか。そんなことを考えていくなかで、私が在日朝鮮人の活動に参加することは全くおかしなことではないし、そういってくださる方がたもいます。もちろん、むなしい時やこれでいいのかと疑問に思うときもないわけではなありませんが、やめるという選択肢はありません。なので、できることをやっていこうと思っています。」

部落に関しては?

「逆に、自分は部落民だろうか、と考えたことはありません。部落に住んだことがない部落民の扱いをめぐって議論はありますが、私は自分が部落民でないと思ったことはないし、葛藤したこともありません。すんなり受け入れられました。それこそが父親が部落民であるからなのかもしれません。けれども、部落で生きている人たちの気持ちはわからないからこそ、きちんと声に耳を傾け、尊重しなければいけないし、『自分は全てをわかってはいない』ということを意識する必要があると思っています。部落にはもちろん外国にルーツを持つ人がいるし、今までもいました。その存在を可視化することで、それぞれの背景を削ぎ落とさず、丸ごと肯定できるような社会づくりに寄与したいです。」

1 詳しくは兵庫県・公益財団法人 兵庫県人権啓発協会の県民意識調査報告書(2024)を参照ください:https://web.pref.hyogo.lg.jp/kf06/documents/r5houkokugaiyouban.pdf

Archive