IMADR通信
NEWS LETTER
アイヌ文化 自然と共生する哲学
結城 幸司
版画・立体作家
父の生きた時代に思いを馳せる時があります。父は、70〜80年代をアイヌ解放運動という人生を駆け抜け、42才の若さで天に召されました。今の私より遥か年下になってしまった父の人生を思うと胸が締め付けられます。私は、父の最初の結婚で生まれた長男であり、私には兄弟はいなかった。後に再婚し異母兄弟は3人いるが、彼らはアイヌに傷ついたようで私との交流は今持っていない。
逆に私は、家庭を壊されたと思い込み、若い頃は何でそんな事までしてアイヌ解放運動を続けるのかと父の生き方に理解をしめす事はなかった。
でも、幼少期の父の優しい姿や周りのアイヌと話す姿は目に焼きついており、心から憎むではないが、そんな青春期を過ごした。父が亡くなったのを新聞で見て、東京でも告別式があると知り、家族とは名乗らず参列者を眺めていた。障害のある方や沢山の方々が心から感謝を捧げている姿を見て、アイヌの解放運動だけではなく、多くの人々と語り合った人なのだと直感した。涙が止まらなくなり、嗚咽しながら近くの公園のトイレに籠って泣きました。
けれど、本州にてアイヌと離れて生きて戻る術もなく、父の新しい家族にも近寄らなかった私はまだまだ街の喧騒の中で生きるしかありませんでした。
それから10年過ぎ、社会の中で生きた私。日本経済の波に呑まれて働いていた会社も潰れ、精神的に追い込まれた私は沢山の本に助けを求め、自己啓発本に誤魔化しを求めて彷徨っていたとき、ネイティブアメリカンの本を読み、父や祖母の姿が浮かんだことからアイヌである自分の血に向き合いました。そして父の本を読み、私の離れていた時代の激動の一人のアイヌの生き方を知ったのです。そこから関東在住のアイヌとともに学び、今から約26年前に北海道に帰りました。自分や父の半生を語るような文章になりましたが、アイヌ文化に生きるとは、より複雑になっていく近現代の道筋抜きには語れないと私は思っています。
差別の波、でも闘う人はいた
さて近現代が始まり、素直に自らの文化を生きられない時代の波の中で、差別の構造は深く根差し始めます。
社会や教育現場等で起こる差別の波、行き場の無い大人たちは荒れ、酒に逃げる姿も子どもながらに見ています。後に話しを聞けば、DVも日常的にあったり、社会に見下された影響か、あるいは酒か、大人たちは喧嘩が多く、学校に行けば生い立ちでいじめに合うなど、その時代に生きた子どもらは四面楚歌。どこに誇りの生まれる要素があるのでしょう。勿論それを越えてきた人々もいます。でも当時、学術の世界では、アイヌ文化の養分だけを吸い取り、挙げ句の果てに「滅び行く民族」と銘打つ学者やメディアもいる時代でした。どこに希望の生まれる要素があるのでしょう。海外の先住民のように居留地さえなく、コタンは当然解体され、失い行くばかりでした。
でも闘う人はいた。平取では良きリーダーに恵まれ、土地を離れる人は他所より少なく、阿寒湖には理解する和人がいて観光地ではあったが、新しいコタンもできたりしました。各地に少ないながらもそんな存在がいて、北海道アイヌ協会などで差別や社会へのアピールを頑張ったおかげで、何とか繋がってきた文化が、我がアイヌ文化なのです。
国際社会や日本社会のあり方も変わり始めてきた時に、先輩方の行動力も発揮されていきます。
国連では、先住民の参加によるロビー活動で作業部会などが組織され、1987年には、北海道ウタリ協会(当時) の理事長だった野村義一さんも国連を訪れて現状を語りました。1993年には「世界の先住民族の国際年」という流れができ、翌年、萱野茂さんが国会議員になるなど激動の流れを経て、1899年より存在した旧土人法に変わり、1997年にアイヌ文化振興法が立法化され、2019年には、アイヌを「先住民族」と明確に認めるアイヌ施策推進法となったのです。実に、「蝦夷地」から「北海道」に名前が変わって一世紀半以上のタイムロスを経ての先住民族法。その間を生きてきた諸先輩方の苦労、差別に曝された人々の苦悩、土地や狩猟、自治権を持たないが故に翻弄され、日本社会とアイヌの世界観を生きるダブルスタンダードな現実を生きることが日常となりました。それが現実の私たちなのです。
高度成長期と銘打った時代には、自然と生きる哲学を持つアイヌ文化の価値観は無視されていました。水俣を始めとする河川の汚染や樹木の伐採も後に自然形態の変化に影響を与えます。アイヌにとって、川は第一に大切に扱うものであり、地名などを見ても川から名前を付けるなど、尊いものでありました。そして動植物をカムイと呼び、敬意を込めていた。その一つの学びで行き過ぎた乱開発を躊躇するきっかけとなったかも知れませんね。
世界の姿も移り変わり、情報社会、インターネットが普及し、差別のあり方も変化し始めました。匿名性の高い場所から以前の差別社会より酷い言葉が羅列され、保守の看板を利用して新しい差別のカタチを生んでしまった。それがヘイトスピーチであり、次々と進化を始め、炎上手法により注目を集め、SNS等での拡散、歪曲された歴史動画の配信など、手が追いつかない状況となり、若い世代や社会への影響など新しい心配事となっています。
アイヌ文化への理解促進は、大きなタイムロスを経た私たちにとっては急務であり、かつての生活伝承を失くした現実を埋める作業に、現代アイヌは尽力しているものの、ヘイトスピーチの進化に四苦八苦しているのが現実なのです。今回見直されたアイヌ施策推進法では、ヘイトスピーチに触れておらず残念です。
私が現在住んでいる札幌市では、最も人通りの多い地下歩行空間で、時代背景・立法理由の解釈の改ざん等でアイヌにマイナスイメージを与える展示が2度も行われ、抗議もしましたが、札幌市では対応も遅く、いまだ結論に向かえないでいるのもまた、私たちの現実なのです。
差別は、無くならない。カタチを変えただけ。
常に、そんな地雷を踏まされるのはアイヌ民族です。「日本人」が醜い行動をしても「日本人」は、そのことを放っておく。そのこと自体がおかしいと思いますが、そのことに気がつくのは、ほんの一握りの心ある人だけです。「美しい日本」、「日本を取り戻す」、「日本人ファースト」など、次々に生まれて来る「日本人」としての意識。しかし、自分たちの精神を高めて行こうとはしないのですか?言い回しや言葉、コンプライアンス等と一見、意識は高そうに見えてもそれは表層だけ。深淵では変わらない。アイヌだけではありませんが、差別は存在し続けている。
では、そんな時代にアイヌたちは何を育み、見せて行くべきか?いつもそんな意識に囚われている私は弱者なのか?葛藤も尽きません。
父は、80年代に札幌市の街のど真ん中を流れる豊平川にて、新しい鮭を迎える儀式、アシリチェプノミを仲間たちとともに古老に教えを請い、約100年ぶりに復活させたとされています。その時に、「この大都会のコンクリートジャングルにこの儀式の存在する事が大きなインパクトとなる」と語ったとされています。そう。祈りと文化的行動こそ私たちの場所であり、この自然豊かな北海道の環境から生まれ、育まれたアイヌ文化こそ、自然と共生する哲学なんです。土地の権利をまだ持てないとしても、ここに文化を繋いで行く権利は、私たちの所有するものなんです。
それでも、私たちのそんな意識は軽く扱われ、経済に依存した世界では、エネルギー問題の変化、代替エネルギーの太陽光パネル、風力発電など、自然界に影響を与えています。世界の常識となっている森林認証の項目では、先住民の意見を聞くこと、とされていますが、いまだ日本のなかでは常識とならず、釧路湿原の太陽光パネル問題など、釧路に生まれた私には、心の痛い話となっています。
でも、逃げない。父の祈りを抱いている。だからヘイトとも向き合う、自然界の環境もしっかりと見ていく、その姿に真実を見つめていく。例えこの現代に生きようと、見つめるべきビジョンを持って、お互いを育む進化は必要です。願わくは、北海道民とは、敬意を持ちあう文化として、この大地にて共生していきたい。
最後に、弱き心抱えてる私は、時に考える。人間に差別が無くなる日が来るだろうか?歴史の中に流れる濁った川である、だが枯れること無い川である。出会い直せるか、と。でもせめて、アイヌウタリ(アイヌの仲間)には告げたい。私たちから差別をするのは、やめようぜと。話し合い強くなろうと。それがアイヌだと。
葛藤するから生まれる心を良きものと信じて。
結城さんは北海道アイヌ協会の専務理事でもあります。
IMADR通信227号 2026/8/20発行