IMADR通信
NEWS LETTER
人種差別撤廃条約と日本 ─日本での発効30周年を機にその意義を問い直す─
友永 健三
反差別国際運動・顧問
はじめに
「人種差別撤廃条約」が日本において発効してから、2026年1月で30周年という大きな節目を迎えた。この間、日本社会における人権意識と法整備には一定の前進が見られた。2016年の「ヘイトスピーチ解消法」や「部落差別解消推進法」の施行、2019年の「アイヌ施策推進法」の制定などはその象徴である。
しかし、現状を楽観視することはできない。インターネット上では部落差別情報が氾濫し、特定の民族を標的としたヘイトスピーチも深刻化している。本稿では、発効30周年を機に、本条約の根本思想と差別撤廃の基本的な方策、特徴、そして日本が抱える課題を概説する。併せて、今後の運動の理論的支柱となるであろう、パトリック・ソーンべリィ著・李嘉永監訳『人種差別撤廃条約 コメンタリー』の活用を呼びかけたい。
人種差別撤廃宣言および条約前文の思想
国連は1965年の条約採択に先立ち、1963年に「人種差別撤廃宣言」を採択している。これら宣言や条約の前文には、国際社会が目指すべき哲学が凝縮されている。特に重要なのは以下の4点である。
第一に、「人権確立の基底」としての意義である。人種差別の撤廃は、すべての人間が固有の尊厳を享受するための絶対的な基盤である。第二に、「科学的根拠の否定」である。人種優越論や優生思想は、科学的に全く正当化され得ない「虚偽」である。宣言と条約は、人種主義の非合理性を明確に断罪している。第三に、「社会の平穏と世界の平和」への寄与である。差別は国内の民族対立を煽り、国際的な平和と安全を直接的に脅かす。平和の実現には差別の根絶が不可欠である。第四に、「加害者への弊害」である。差別は被害者の尊厳を破壊するのみならず、差別を行う側の精神や人間性をも歪めるものである。
人種差別撤廃条約が求める「6つの基本方策」
条約の実体規定(第1条〜第7条)には、差別を実効的に撤廃するために締約国が講ずべき6つの基本方策が盛り込まれている。
①人種差別の禁止(第2条・第3条・第4条・第5条):差別は個人の生存を脅かし、社会秩序を破壊する。したがって、あらゆる形態の差別は法的に厳格に禁止されなければならない。②人種差別の被害者救済(第6条): 差別を受けた者が迅速かつ適正な補償、あるいは法的救済を受けられる体制を整えること。最終的な砦としての裁判所に加え、パリ原則に基づいた「国内人権機関」など、被害者に寄り添う補完的機関の整備が求められる。③「特別措置」の実施(第1条4項・第2条2項):歴史的・構造的な理由で不利な状況にある集団(マイノリティ)に対し、格差是正のための「特別措置」を講じること。これは不当な優遇ではなく、真の平等を達成するために必要な「特別措置」とされる。但し、格差解消時には廃止されるべき時限的な性質を持つ。④教育・文化・広報による偏見の打破(第7条): 差別は歴史的に蓄積されてきた社会の深層にある偏見から生じる。教育や広報、文化活動を通じて市民の意識を根本から変革する努力が不可欠である。⑤異なる集団間の交流・友好促進(第2条・第7条):アパルトヘイトのような隔離政策や同化政策への反省に基づき、互いの多様性を認め合う交流を促進することが求められる。⑥差別的な法律・制度の改廃(第2条1項(c)): 差別を助長・固定化させている法律や慣習を抜本的に見直すこと。例えば、日本の戸籍制度が部落差別や女性差別、婚外子差別を維持させているとの指摘があり、国際社会からも改廃が求められている。
人種差別撤廃条約の「5つの大きな特徴」
本条約は、人種差別の実態に即した特徴を備えている。
第一に、広範な差別事由である。第1条1項は「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身」を挙げている。人種差別撤廃委員会は、この「世系」に日本の被差別部落出身者を含めると一貫して示しており、この条約の対象には、在日コリアン、アイヌ、沖縄の人びとへの差別等も網羅される。第二に、私的領域への適用である。公的機関だけでなく、民間企業や個人による差別行為も対象とする。これは差別の多くが市民社会の中で発生するという現実に即した規定である。第三に、全分野における権利の享有である。政治的権利のみならず、経済・社会・文化的権利の全領域を対象とする。特にホテルや飲食店など「一般公衆の使用を目的とする場所又はサービス」へのアクセス権を明記している点は象徴的である。第四に、「結果の平等」の重視である。形式的な機会の平等にとどまらず、実際に格差が解消されるという「結果」を重視し、そのための「特別措置」を認めている。第五に、表現・結社の自由の制限(第4条)である。差別的な宣伝や扇動、差別団体の結成等を法律で処罰することを求めている。表現の自由は尊重されるべきだが、他者の尊厳を侵害する無制限な自由は認めないという立場である。
日本の加入に至る険しい道のり
日本が条約に加入したのは1995年12月であり、世界で146番目という遅さであった。長らく政府は「日本に人種差別は存在しない」「条約の内容は憲法の表現の自由や結社の自由と抵触する」といった消極的な答弁を繰り返してきた。この壁を突き崩したのは、部落解放同盟をはじめとする広範な市民運動であった。1979年の国際人権規約批准の経験を基盤に、講演会の開催や出版物の発行、署名運動や自治体決議、政府交渉が粘り強く展開された。1994年の米国の批准や、人権問題に熱心な村山内閣の誕生が追い風となり、ようやく加入が実現した。
日本政府の対応と国際社会からの厳しい視線
日本での発効から30年が経過したが、この間、4度にわたって日本政府報告書の審査が人種差別撤廃委員会で行われ、総括所見が示されている。その内容を見ると、政府の対応には依然として国際基準から乖離した点が目立つ。
まず、「留保」と「不受諾」である。日本は、表現の自由や結社の自由への抵触を懸念し、差別扇動等を処罰する第4条(a)(b)項を依然として留保している。また、個人が国連に直接被害を訴える「個人通報制度(第14条)」の受け入れ宣言も、長年の勧告を無視して行われていない。
次に、「世系」の解釈の不一致である。政府は「世系」に部落差別は含まれないとの見解を変えていないが、委員会は、部落差別は「世系」に基づく差別であると繰り返し断言している。委員会からの総括所見では、包括的な人種差別禁止法の制定、パリ原則に準拠した独立した国内人権機関の設置等が毎回のように求められている。日本政府はこの国際社会の声に対し、誠実に応える責務がある。
理論的支柱として:『人種差別撤廃条約 コメンタリー』の活用を!!
現状を打破し、条約を国内で機能させるためには、市民の側も正確な知識を身につけなければならない。このたび解放出版社から刊行されるパトリック・ソーンべリィ著、李嘉永監訳『人種差別撤廃条約 コメンタリー』は、まさに待望の書である。監訳者は「訳者あとがき」で、著者が人種差別撤廃委員会の委員を務めた権威であり、本書が委員会の実行に関する検討を踏まえた極めて価値の高い文献であると解説している。全20章からなる本書は、条文の深い分析から国際司法裁判所の役割との関係までを網羅しており、日本における包括的差別禁止法の立案や政策提言を行う上で、これ以上ない強力な理論的武器となるだろう。
おわりに
人種差別撤廃条約の日本での発効30周年は、単なる歴史の節目ではない。日本政府が誓った「あらゆる形態の人種差別の撤廃」という約束が、この国でどこまで果たされているのかを検証し、次なる行動へと繋げる時である。包括的な差別禁止法の制定、国内人権機関の設置、個人通報制度の導入。これら長年の「宿題」を放置し続けることは、国際社会における日本の信頼を損なうだけでなく、今この瞬間も差別に苦しむ人びとの声を無視することに他ならない。私たちは今一度、条約の精神に立ち返り、差別なき社会の実現に向けた歩みをさらに加速させていこう。
IMADR通信225号 2026/2/26発行