IMADR通信
NEWS LETTER
移民とレイシズム ドイツ発
ノア・ハ博士
ドイツ統合・移民研究センター
これは2025年8月12日にIMADRとハインリヒ・ベル財団(HBS)東アジア事務所(在ソウル)が共同で開催した講演会「移民とレイシズム」の講師であるノア・ハ博士(ドイツ統合・移民研究センター)の講演を要約したものである。
ドイツ統合・移民研究センター(DeZIM)は、現代社会が直面する最も重要な課題である統合と移民、社会的参加と多様性、人種主義と人種差別などについて研究する国立研究機関で、連邦政府が資金を拠出している。その目的は、ドイツ国内における統合と移民に関する研究を強化・定着させるとともに、国際舞台での可視化を高めることにある。DeZIMは3つの研究部門からなる。①統合:個人およびコミュニティが社会にどう参加するか、②移民:移民の流入とそのインパクト、③合意と対立:社会的結束、民主的慣行、社会的緊張。特に重要なのは、ドイツ全土で人種主義と人種差別を体系的に追跡する「全国人種主義・人種差別監視」を主宰していることである。
DeZIMはベルリンを本拠としているが、ドイツ全土の主要な研究機関を結びつける「DeZIM 研究コミュニティ」という大規模なネットワークの一部として活動している。それにより、DeZIM はローカルな専門知識と全国的・国際的な視点を融合させることができる。
ドイツの移民史、人口構造の変化と市民権
1945年以降、ドイツの移民の歴史はいくつかの重要な局面を経て発展してきた。戦争直後、東ヨーロッパに住んでいた数百万のドイツ系住民が追放され、分割された西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)にそれぞれ再定住した。西ドイツでは、1950年代から1960年代にかけて、イタリア、ギリシャ、特にトルコから「ゲストワーカー」と呼ばれる労働者が労働力不足を補うため、二国間協定を通じて流入した。当初は帰国が想定されていたが、多くはドイツに残り、家族を呼び寄せ、ドイツ最大の移民コミュニティの基盤を築いた。
東ドイツでは、労働移民の形態が異なっていた。1960年代以降、東ドイツはベトナム、モザンビーク、アンゴラ、キューバなどの社会主義諸国から「契約労働者」を招き入れた。西側のゲストワーカーとは異なり、彼らは隔離された寮に居住し、地域住民との接触が制限され、家族帯同は許されなかった。大半の契約労働者は契約終了後に本国に戻ったが、一部のベトナム人は東西ドイツ崩壊後も残った。
1990年のドイツ再統一は、この2つの異なる移民制度を統合する重要な転機となった。再統一は東と西の移民人口を統合するだけでなく、移民や多様性への対応において東西の顕著な違いを浮き彫りにした。旧東ドイツでは移民が厳重に管理されていたため、多文化社会への経験がなく、それが1990年代の緊張と排外的な暴力の一因となった。再統一の時期は新たな移民の流入と重なった。旧ソ連からのドイツ系住民、バルカン戦争の難民、やや時間をおいてヨーロッパ各地やその他地域からの移民が、統一ドイツに流入した。
いわゆる「難民危機」
2000年代以降、移住とは、EU市民の移動自由の権利の行使、庇護希求者、難民などを含むようになり、多様化を続けた。2015年、ドイツは「難民危機」と呼ばれる時期にシリア、アフガニスタン、イラクからの大量の難民を受け入れ、この決定はドイツ社会の変換をさらに進め、移民とアイデンティティに関する議論が高まった。
これらの連続した移民の波はドイツを事実上の移民社会に変えたが、政治指導者たちは数十年経ってからこの事実を渋々認めるようになった。現在、ドイツ人口の約4分の1が移民の背景をもっている。移民は都市、労働市場、文化生活を変容させるとともに、ポスト移民社会における帰属、統合、国家アイデンティティに関する議論を加速させている。
市民権:「出生地主義」の導入
2000年、ドイツは市民権法を抜本的に見直し、国家が国籍と帰属をどう捉えるかにおいて転換点となった。20世紀の大半において、ドイツの市民権はほぼ完全に血統主義に依拠していた。つまり、「ドイツ人」であることは、出生や居住地ではなく、基本的に祖先に結びついていた。その結果、数百万人の長期在留者─特にトルコなどからの「ゲストワーカー」の子孫─は、ドイツで生まれ育ったにもかかわらず、自動的に市民権を取得できなかった。
2000年の市民権改革はこれを変えた。ドイツは初めて出生地主義を市民権に取り入れた。ドイツ国内で外国人の親から生まれた子どもは、一方の親が8年間合法的に居住して永住権を有する場合、自動的にドイツ市民権を取得できるようになった。この改革は、ドイツは移民国家であることを象徴的に示した。だが、この改革には重要な条件が含まれていた。これら子どもたちは、23歳までにドイツ国籍と親の国籍のいずれかを選択することを義務づけられた。この要件は、二重国籍に対する継続的な矛盾と、忠誠心や統合に関する疑問を浮き彫りにした。
なぜこれほど重要だったのか?
2000年の改革は、ドイツ自体の自己認識に根本的な転換をもたらした。これは、民族的に定義された国家観から、より市民的で居住地に基づくモデルへの移行を象徴するものであった。移民コミュニティ、特にトルコ系コミュニティにとって、これは長年待ち望んだ認識の転換だった。また、「所属する」とは何を意味するのかという公の議論を触発した:市民権は血統や伝統に依存するものなのか、それとも参加、社会化、共有する未来に根ざすものなのか?
この法改正は、ポスト移民社会のドイツ、多文化主義、国民のアイデンティティに関する広範な議論を触発した。それは「ドイツは移民の国ではない」という従来の仮説に挑み、多様性と包摂に関する新たな政治的語彙の基盤を築いた。
2000年以降、以下のさらなる改革はドイツの進化への道を敷いた。
2014年の改革:「選択義務」が一部廃止された。ドイツ国内で外国人の親から生まれた子どもがドイツで育った場合(最低8年在住し、6年通学したかドイツで卒業した場合)に国籍を選択する必要がなくなった。これにより、多くの若者が二重国籍を保持できるようになった。
市民権取得要件:長年、市民権取得のための標準的な居住要件は8年であった。申請者は言語能力、ドイツ社会に関する知識、経済的自立を証明する必要があった。
現在の動向(2024–2025):ドイツ政府は、二重国籍と複数国籍を広く認める大規模な改革を可決し、市民権取得のための居住要件を5年に短縮した。これは大幅な転換を意味し、ドイツが多様でポスト移民の社会であることを反映している。
帰属に関する議論への影響
これらの改正は、誰がドイツ人として認められるかという議論に深く影響を与えている。市民権は民族的起源の指標としてではなく、市民的包摂の問題として捉えられるようになった。しかし、依然として論争を招きやすく、しばしば、移民、統合、国家アイデンティティの問題と交錯する。右派ポピュリスト政党はこれらの改革を「ドイツらしさの希薄化」と批判するが、支持者は多様性のある社会における平等と民主的参加への不可欠なステップと捉えている。
日本語抄訳:IMADR事務局
Dr. Noa Ha(ノア・ハ博士):1974年、西ドイツ生まれ。造園家の訓練を受けた後、ベルリン工科大学で都市計画を専攻。ベルリンの路上業者を通じて非公式部門と人種差別について分析した論文で博士号を取得。
IMADR通信224号 2025/11/21発行