IMADR通信
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【レポート】わたしの戦後80年リレートーク集会
福井 周
アクティビスト/クリエイティブエディター
7月7日、そろそろ日が沈もうかという時間になっても気温は30度を下回らない。日陰のない国会議事堂正門前は、足下のコンクリートが蓄えた熱と湿度を含んだぬるい風のせいで、身体にまとわりつくような熱気が立ち込めていた。
七夕の夜に開催された「わたしの戦後80年リレートーク集会」を取材した。
この集会は、1937年7月7日に起きた「盧溝橋事件」にちなみ、さまざまな国籍やルーツ、ジェンダーアイデンティティを持つ、幅広い世代の登壇者十数名が「私の戦後80年宣言」を語る集会で、「わたしの戦後80年リレートーク集会」実行委員会が主催した。
同集会のWebサイトに掲載されている呼びかけ趣旨の一部を引用する。
日本敗戦から80年が経過した今年、この日を忘れずに記憶し、アジアの人びとと歴史認識を共有し、「二度と戦争をしない」という誓いを新たにするため、リレートークを開催します。
さらに、日本軍が侵略戦争を引き起こす原因となった植民地支配の歴史とも、しっかり向き合う必要があります。清算されない植民地主義は、現在の在日コリアンへの差別や沖縄への基地押し付け、非人道的な入管体制などを生み出してきました。加えて、イスラエル軍によるパレスチナ人虐殺・民族浄化も、植民地主義の一環であることを私たちは忘れてはなりません。
当日のスピーチから、数名の発言を紹介したい。
戦後という言葉が不思議でなりませんでした
在日朝鮮人3世で、非正規滞在の移民・難民の支援や、関東大震災朝鮮人虐殺の記憶を継承する活動などにも携わっているというUHIさんは、「私は戦後という言葉がずっと不思議でなりませんでした」と語り、日本社会で言われる『戦争』は1941年からの太平洋戦争なのだろう、と触れた上で、「なぜそのたった数年間の戦争がスタートラインかのように語られるのか」、そして「なぜその戦争の前の期間を『戦前』と呼ぶのでしょうか」と重ねて問いかけ、こう続けた。「だって戦争というものが民間人の犠牲をたくさん出して、大切な人が亡くなり、(中略)人間としての尊厳を奪い人々を苦しめるものなのだとしたら、日本はその前から、戦争なんて何度も行っていたと思うからです」。
また、台湾や朝鮮の人びとへの弾圧、関東大震災の時に行われた虐殺などの植民地主義による暴力の歴史に言及し、「幼い頃は朝鮮半島が併合されていた植民地時代は、まるまる『戦争』なのだと思っていたのです」と語った。
そして、UHIさんは在日朝鮮人にとって『戦後』は新たな差別の始まりでしかなかったと言い、日本国籍の剥奪や、長崎県の大村収容所への収容などに言及した上で、「まさに在日朝鮮人を取り締まる目的で、戦後日本は出入国管理体制を整えていったのです」と指摘。現在、それらの差別や排除の眼差しは、移民・難民に向けられているとし、次のように言葉を紡いだ。
「私は、虐殺は植民地時代だったからこそ引き起こされた、究極の暴力だと思っています。けれどいま、植民地時代じゃないから大丈夫だよね、と到底思えません。その時の虐殺に対して日本政府は未だに公式に謝罪もしておらず、植民地の清算も責任を持って行っていないからこそ、現在もデマを野放しにして、ヘイトを止めようとしないのです。ヘイトは人を殺します。植民地主義は現在も継続しています。自分が在日朝鮮人として名乗り続ける理由は、そのことを日本社会、国際社会に絶えず思い出させるためです。」
沖縄は何を反省すればよいのだろう
沖縄出身の大学生、崎浜空音さんは冒頭にうちなーぐちで挨拶したあと、前出のUHIさんの問いかけに重ねて、「戦後って何でしょうか。私たちウチナーンチュにとって、戦後はあったのでしょうか」、「形式的には6月23日に戦争が終わり、先日も慰霊の日の式典がありました。その際、首相挨拶の場で『沖縄を二度と戦場にするなと約束しろ』と声を上げる方がいました。その言葉を聞いて、沖縄は戦後ではないのだと、もしかしたら戦前になるかもしれない、そんな状況にいるのだと、私は改めて思い知らされました」とスピーチを切り出した。
また、崎浜さんは、自身の高祖父が戦時中、ヤギの餌を取りに行っただけで射殺されたこと、一方で、祖父は日本兵として戦場に赴いたことに触れ、「私の先祖が戦争で殺された反面、日本兵としても兵士として行った祖父がいて。私は『反省』、『日本の加害』という言葉を聞いた時に日本兵の祖父がいる一人として反省するべきなのか、沖縄は何を反省すればいいのだろうと考え続けています。今もなお答えは見つかりません」と語った。
そして、自身の出身地である北谷町ではいまだに米軍基地が町の50%以上を占めていることを付け加え、「戦争を体験した祖母はある時、米軍機を見て危ない怖いよって戦争を思い出して叫んでいたことがありました」と続けた。
崎浜さんは、基地があることで戦争体験者がいまもなお戦争を疑似体験させられていることを忘れないでほしいと語り、「いつかおじーおばーに、沖縄はもう平和だよと、戦後だよと、もう戦争の影なんか1ミリもないよと、そう言えることを願って私は行動をし続けます。そしてみなさんにも行動し続けていただきたいと思います。沖縄の問題ではなく、沖縄に基地を押し付けている日本の問題として、皆さんが自分ごととして捉えていただければと思います」とスピーチを結んだ。
人は間違う、だから間違いを正さなければならない
この日、最後のスピーカーとして壇上に立った音楽家のアズィーズ・アルカマルさんも、『戦後80年』は、誰の視点から見た80年なのだろうか、この国は植民地主義の反省をしたのだろうか、と問いかけることから口火を切った。
また、かねてから、年金保険料を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の投資先にイスラエル国債が含まれていることなど、パレスチナで行われている虐殺に日本が国家として加担していることをさまざまな市民団体が批判してきたが、この状況をアズィーズ・アルカマルさんは、「日本は植民地主義を反省せず、現在進行形で間違え続けている」のだと指摘し、「つまるところ人は間違う。だから間違いを正さなければならない」と訴えた。
そして、数日前に告示された参議院選挙についても言及し、さまざまな差別と闘っていく必要があると語った。その上で、「私たちは、差別はダメだという時に、その口で、その足で、他の何者かを踏みつけてはならない」と注意を促し、集会の会場ではUDトーク(字幕を提供するアプリケーション)が用意されていたことに触れて、聴くことに障害がある人でもこうした場に参加できるよう、情報保障の重要性を強調して発言を終えた。
この日、集会に参加した筆者は当初、『戦後80年』という言葉自体への違和感をさほど持たず、すでに設定された大文字の議題として、その枠内でどのような考えや言葉が発されるのかに興味を持ってその場に佇んでいた。浅はかな態度であったと反省している。
しかし、UHIさんのスピーチをきっかけとして、筆者自身はもちろん、その場にいた人びとにも緊張感が走ったように感じた。さまざまなスピーカーが壇上に立つたびに『戦後80年』の意味が問い直されたのは、排外主義が煽動された選挙期間と重なっていたという意味でも、非常に重要だったのではないだろうか。
集会の様子、すべての登壇者のスピーチは集会のWebサイトから視聴することができる。ぜひ、それぞれの言葉に耳を傾けてほしい。
IMADR通信223号 2025/8/20発行