IMADR通信
NEWS LETTER

部落解放をめざす教育と人種差別撤廃条約

「人種」概念のリニューアル
日本で「人種」と言えば「肌の色」に象徴される生物学的な人間集団の区分がイメージされる。これは国際的・科学的には誤りである。
日本では、「部落差別は人種差別や民族差別とは異なる」と言い続けられてきた。同じ民族のなかの差別だということを主張するためである。それは「人種は生物学的概念」、「民族は歴史的概念」という捉え方を前提としてきた。
このさい、「人種」という概念の日本での使われ方を改めて、「家系などなんらかの理由付けで“特定の人たち”を自分たちとは別な集団だと主張するために用いる概念」と変えた方がよいのではないか。「人種」は科学的概念ではないので、「人種」ということばには原則としてカギ括弧をつける。

蓄積されてきた原則と実践
部落解放をめざす教育は、第二次世界大戦後まもなく各地で取り組まれるようになるが、1953年になって、全国組織として全国同和教育研究協議会が設立された。地域により、個人により、この教育の捉え方は異なり、議論は百出だったが、次第に整理されていく。ポイントは、生活のなかに差別を見て取るという点だった。安定した仕事に就けない。そのために家計が不安定になり、家庭内でのもめごとが出てきやすくなる。本人たちは、そのためにさまざまな思いを抱くようになる。たとえば、子どもが親を見て「なぜうちの親だけ……」と思ったり、「なぜ先生は自分たちのことを悪く言うのだろう」と思ったりするのである。
1965年になって「差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」というスローガンを確立する。このスローガンの特徴は、差別というのは「特定の誰かに差別された」という差別事象だけをさすのではないところにある。部落外よりも生活が厳しければ、そこに差別を見て取るということになる。同和対策事業特別措置法(1969年)は、被差別部落の生活改善をめざし、教育にあっても、被差別部落の子どもたちの低学力解消の手立てを打つことになっていった。
この点は、人種差別撤廃条約の条文と重なっている。同条約の第2条第2項は次のように定める。「締約国は、状況により正当とされる場合には、特定の人種の集団又はこれに属する個人に対し人権及び基本的自由の十分かつ平等な享有を保障するため、社会的、経済的、文化的その他の分野において、当該人種の集団又は個人の適切な発展及び保護を確保するための特別かつ具体的な措置をとる」。
日本政府が人種差別撤廃条約に加入したのは1995年である。それよりはるか以前、人種差別撤廃条約が国連で採択された1965年ごろには、すでに部落差別に関連して、ほぼ同様の問題意識に立った政策や教育論が準備されていた。それを担えるだけの教職員集団が各地に生まれつつあった。
人種差別撤廃条約の第2条2項や第5条などに対応する同和対策事業特別措置法の事業を受けて、各地で教育事業や教育実践が行われるようになった。特に、同和加配教職員制度、教材開発、奨学金制度である。
同和対策事業の一環として、同和地区に対して他より手厚い教職員が配置され、長年の要求だった少人数学級が実現した。同和加配教職員を活用して教育内容の自主編成がすすめられた。これにより、被差別部落の子どもだけではなく、その学校に通うすべての子どもたちの学力向上が徐々に実現していった。めざすべき学力の方向性として、部落差別をはじめあらゆる差別をなくす力を育むべきことが共有されていった。このように、部落解放をめざす教育における学力保障は、アメリカなどにおける補償教育よりも、反差別の方向性を明確に持っていた。
同和対策事業にも関連して始まったもう一つの施策はすべての学校で人権学習をすすめるための教材づくりであり、副読本づくりであった。副読本のなかには、1960年からのものも含まれるが、多くは1970年頃以後に編集されている。各地の人権学習の読本は、『あゆみ』(東京)、『あけぼの』(長野)、『せいかつ』(三重)、『にんげん』(大阪)、『ともだち』(兵庫)、『なかま』(奈良)、『ほのお』(岡山)、『なかよし』(山口)、『ひかり』(徳島)、『かいほう』(高知)、『人間の輪』(愛媛)、『かがやき』(福岡)、『きずな』(熊本)、『わたし 語らい 響き合い』(大分)『いきる』(宮﨑)、『文学読本 はぐるま』などである。これらを手がかりとして、多くの学校で人権学習が取りくまれた。また、副読本を参考に、それぞれの学校や子どもたちにぴったりの教材が創造された。副読本という教材スタイルは、東アジア的な面を含んでいるが、人権学習に特化した副読本は日本独自なのではないか。
進路の保障に関連して重要だったのが、同和対策事業による高校や大学の奨学金である。日本の奨学金の多くは貸与制だが、この奨学金は給付制で、ある程度生活費にも充てることができた。これにより、同和地区内外の進学率格差は大きく改善された。奨学金制度が貧困な日本社会にあって、同和対策事業の奨学金は、画期的だった。
こうした政策は、人種差別撤廃条約の精神とも合致していた。1995年に条約に加入する以前から、日本では人種差別撤廃条約の一部が具体化されていたともいうことができる。これらの施策は、部落差別から始まって、アイヌ民族などにも拡充されている。

課題
2002年をもって同和対策事業は終了した。それにともなって、上にあげた施策の多くはなくなった。成果はあったが、これから本格的に日本の教育を変えるという段階での施策の中止だった。2019年に法務省が実施した調査でも、「部落差別解消のための教育」は「積極的に行うべき」との回答が18.4%、「行うべきだが、内容や方法は変えるべき」という回答が37.6%となっている。実施に賛同する人は56.0%で過半数なのだが、これまでの取りくみに無条件で賛成の人は18.4%にとどまる。
学力保障では、同和地区が校区にある学校での取り組みが、他の学校にも広がりつつあった。たとえば、小学校入学時の言語指導教材『ひらがな』である。この教材以前、日本のひらがな教育は自然発生性に依拠してすすめられていた。結果として、家庭の文化・教育的資源の特性によって取りこぼされる子どもたちが出ていた。『ひらがな』は、すべての子どもの学力保障をめざし、実際に同和地区が校区にない学校にあっても、『ひらがな』を用いる学校は出てきていた。残念ながら、そういう動きは、2002年以後、制約を受けることになる。
人権学習副読本を活用した人権学習は広がりつつあったが、1990年代に入って、本というスタイルだけではなく、いわゆる参加体験型の人権学習が産み出されようとしていた。人権学習は、生活や社会のなかの問題を自分に引き寄せつつ行われるべきである。そのような観点から、国際的に参加体験型の学習活動が次々と産み出されていた。日本においても、そのような活動は次第につくられるようになったが、財政的基盤が失われるもとで、勢いはそがれることとなった。
奨学金制度も、給付制は廃止された。近年、私立学校も含めた高校の無償化が進められている。それは人権の観点に立ったというよりも、私学を含めた進学競争を激化させ、公立学校を追い込んでいくような政策となっている。
人種差別撤廃条約に規定されているにもかかわらず、同和対策事業で取りくめなかった問題もある。そのひとつは、差別の法的規制である。日本では、「差別を法的に処罰する」という認識が弱く、法律もない。差別の規制が法的に定められていれば、教育の在り方も大きく違ってくるはずだ。
人種差別撤廃条約の精神を活かした、人権に根ざした教育制度や教育施策、教育内容や方法が求められている。すでに1970年から2000年頃までに、その土台は形成されている。もう一度その土台をふまえつつ、未来に向かって前進していくことが求められる。

IMADR通信223号 2025/8/20発行