IMADR通信
NEWS LETTER

狭山事件 ─変えられた人生を生きる

私が狭山事件に出会うのは高校時代だった。被差別部落であることに固い貝のごとく口を閉ざした28戸の地域。注意深く言葉をえらぶムラのなかで、電柱に貼られた「狭山差別裁判糾弾」のビラに気をとめる時があった。他地区に張られた形跡がないビラの「狭山差別裁判」についてその時はそれ以上、知るすべもなかった。小さな集落は、回覧板よりも噂の方が先にはしる。家屋敷を売りはらい他所に出る人が出始めたのもこの頃だったろうか。私に「同和」という言葉が輪郭を見せ始めていた。 

一雄さんの死に寄せて
3月11日、私のところにも石川一雄さんの訃報が届いた。86歳だった。
狭山事件が起きて今年で61年目であり、第三次再審請求で決着をつけるのだと、一雄さんだけなく周囲の人たちも意気込んでいた。創意工夫をこらした取り組みが、再審闘争の裾野を支えてきた。一雄さんの死は、科学的な鑑定を丁寧に積みあげ、慎重ともいえる取り組みのなかで高裁の判断が待たれていた最中だった。第三次再審請求審は異例の19年に及んでいた。
私に寄せられたメールにも一雄さんの死は「ショックだった」と率直な言葉がつづられていた。私の脳裏にふと「一雄さんは亡くなって、楽になったのかもしれない」という思いがよぎった。一雄さんは、1994年12月の仮出獄後は、獄中時に亡くなった両親の墓参りにもいかなかった。雪冤するまでは死んでも死にきれなかったに違いない。しかし、支援の輪が広がるほどに、弱音を吐けない「ヒーロー」に苦悶したことはなかったろうか。私が受けた喪失感は、私たち自身が求めた一雄さんへの「ヒーロー像」ではなかったかと胸を突かれた。一雄さんが生きた人生をあらためて想う。強く生き抜いたと思う。そして、「犯人」のまま逝ってしまったという「無念」をかみしめたい。
一雄さんの父・富蔵さんと母・リイさんは、小さな体で全国へと一雄さんの無実を訴えて回った。兄・六造さんは、一雄さんの誕生からその死までもっとも身近に見つめてきた人でもある。近年は自らの体調不良もあったが、自分より先に逝くとは思ってもいなかったに違いない。また、六造さんの妻・梅子さんは、家族に代わり一雄さんとの接見や差し入れを引き受けていた。世間の差別の眼差しのなかで、必死に一雄さんの無実を訴えた家族のことを想うと、その無念は計り知れない。一雄さんが亡くなった3月11日は、奇しくも浦和地裁が、わずか5か月ほどの審理で死刑判決を下した日でもあった。
新聞報道によれば、「石川さんは数枚つづりの便箋に「遺書」をしたためていた。そこには、再審裁判を早智子さんに引き継いでほしいという願いと、自分の遺体は石川さんの旧宅跡地に建つ支援事務所に置き、再審運動を支えてくれた人たちと最後の別れがしたいと、つづられていた。その願いに応えたいと、13日から2日間、遺体は事務所に安置される予定」と伝えた。知り合いの何人かは、遺体に対面したという。葬儀に参列できたひとりは、早智子さんが一雄さんの棺によりそったまま離れない姿が切なかったという。
早智子さんは、一雄さんの獄中からのアピールで、そのまっすぐな生き方に自身の生き方を変えられたという。出身を隠し、怯えつづける生き方から解放されたということを周囲に語っていた。一人の死は、早智子さん自身にあらたな闘いを促した。

狭山闘争は生き直しの場
これまで、再審開始を求めて高裁前でアピール行動がつづけられてきた。コロナ禍での中断もあったが、いろいろな属性を持った人どうしが出会う場でもあった。その人たちの生きざまの片鱗にふれると狭山闘争は「生き直し」の場になったと感じさせるものがあった。生きづらさを抱え、あの場に行けばわかってもらえるのではないかと訪れる人もいたと伝え聞くこともあった。高校生の頃に獄中の一雄さんに手紙を出し、返事をもらったと手紙のコピーを携えた人もいた。
狭山闘争は、ひろく緩やかなつながりを生み出してきた。何かしらの組織に属する人たちとは別に、組織を持たない、組織に属さない人たちが自らの意思によって参加する群れを生み出していた。狭山闘争という場にあって、出会うはずもなかったかに思える人たちとの人生の交差は本当に魅力的だと感じさせられた。どちらかと言えば不器用で一途な一雄さんを支えた早智子さんは、社交的な一面を生かしていた。無理をしているなと感じさせる場面も多々あったが、ある意味「覚悟」をにじませたふるまいでもあった。
ある日のアピール行動の日。当日は暴力団幹部の公判があり、動員されたであろう人たちの集団がいた。その後、公判を終えたその集団の一人が、署名板を持つ私のところへ歩み寄ってきた。普通の若者に思えた。「小学生のとき石川さんのことを習いました」とひとこと告げて署名した。一雄さんの無実を信じる若者がここにいる。これからこの若者はどう生きていくのか。社会からはじき出された者への痛みを感じる瞬間でもあった。
早智子さんはいう。「部落の人の『差別の痛み』が狭山(闘争)には詰まっています」、「狭山に出会って、石川のメッセージに出会ってやっと『人間としてあたりまえに堂々と生きる』ことができた様に思います。小さな一人一人の思いが大きな波になります」と。「狭山に出会ってほんとうに幸せでした」とも。この闘いに加わった人たちには、なにかしらの痛みを抱えている人もいる。この場は、他者の痛みに触れることで自らの痛みの意味に気づく場所でもあったと思う。生きたいともがいてきた者にとって狭山闘争は、そのつらさを越えていこうとする力を醸してきた場となった。変えられた生き方のなかに、新しい世界を展望することは可能だろう。
マイノリティは、マジョリティの価値観の社会で十分すぎるほど忍耐をし、苦しんできた。肉親から理解されないこともあったろう。たったひとりで泣きながら、それでも前を向いてきた人たちの声が私を闘いの場に招きつづけてきたと思っている。この闘いは、第四次再審闘争に託される。これまで多くの人により紡がれた物語は、必ずや再審の門をひらく力となると信じる。早智子さんを支え、早智子さんとともに生きる繋がりが今後の再審闘争の成否を決めていくだろう。

ともに歩む闘いを
一雄さんの訃報を受けた1週間後、もう一つ訃報が届いた。今年は「世良田村事件」が起きて100年。わずか23戸の被差別部落を数千の住民が「水平社の増長を懲らしめる」という理屈で暴行と破壊行為に及んだ事件である。その襲撃を受けた地域で、差別に抗い生き抜いた盟友の死だった。その10日後には、ひとりの牧師が召天した。1969年11月、用事ででむいた浦和地裁の屋根から、狭山事件を訴える場面に衝撃をうけ、部落問題に取り組むようになった人だった。さらに、29日には東京で解放運動の役員をしていた方が亡くなった。話しを聞く予定があった。この3月は、つぎつぎと4人もの人が亡くなってしまった。

昨年7月から狭山市で小さな集いを始めた。私の「終活」として思い立った。参加してくる人たちは狭山闘争のなかで出会った人たちだ。この地を選んだのは、狭山事件を全霊でとりくんだ盟友の死と導きだった。再審開始のために東京高裁へと要請に向かう電車内で倒れ、昏睡の時をへて一昨年夏に召天した。一雄さんの死は名もなき盟友たちの死とともに、私にも新たな闘いを促したと思っている。

石川一雄さん、「見えない手錠」つけたまま旅立つ 狭山事件で再審請求. 毎日新聞. 2025-03-12, 毎日新聞デジタル

IMADR通信222号 2025/5/27発行