IMADR通信
NEWS LETTER
ふたつの《毀釈》:西光万吉の表現について
小田原 のどか
彫刻家・評論家、横浜国立大学教員
東京へ行った第一夜、初めての晩ですよ。太平洋画会の紹介で下宿に着いて、あてがわれた部屋に荷物をおろし、自画像を描いていると、階下で下宿のおかみさんたちが話しているんです。
「新しいこどもが来ましたね。どこから来たんです」「奈良県ですよ。奈良県には、名物が三つありますよ」「何でしょう」。ほかに下宿している人たちも話し込んでいるんです。「ひとつは奈良の鹿。ひとつは奈良のおかゆ。あとひとつは、えたや。部落民や」いうてるんですよ。私はその夜眠れませんでした。畝傍中学で差別を受けてやめ、故郷を離れれば、こんな差別的なことばを聞かなくてよいと思って東京に来たのにその第一夜にですよ。寝られますか。
(福田雅子『証言 全国水平社』日本放送出版会、1985年)
日本初の人権宣言といわれる「水平社宣言」の起草者のひとり、西光万吉(本名:清原一隆、1895〜1970年)が専門的な美術教育を受けた人物であることは、それほど広く知られているわけではない。この引用は、画家としての道を歩むため上京した西光が、東京で過ごす最初の夜に経験した差別についての証言だ。
1895年、浄土真宗本願寺派(西本願寺派)・西光寺に長男として生まれた西光万吉は、部落差別のために僧侶となることを断念し、「関西美術院」(明治39年に京都市に創立された私設の洋画研究所)で学んだ。1913年春、本格的に絵を学ぶために東京に居を移した。東京での画業は順調であったようだ。しかし、パトロンとなった画商からは娘との結婚を促され、画業の師からは奈良旅行の案内役と親の紹介を頼まれる。出自が知られることを怖れた西光は、画塾から遠ざかった。心身ともに衰弱し、同郷の友人・阪本清一郎とともに郷里・御所市柏原に戻る。数年後、彼らは、賤視された被差別部落の人々が人間の尊厳と権利をうたい、差別からの解放を求める全国水平社の創設者となった。
水平社宣言が出された翌1923年、阪本数枝が婦人水平社設立を提案し、可決された。「兄弟よ」という男性限定の呼びかけなどに顕著な水平社宣言における男性中心主義をめぐっては、2024年3月、部落解放同盟は「ジェンダー平等に対する重大な問題点を抱えていた」とする見解を採択した。西光がしたため、仲間たちと磨いた水平社宣言が、いまなお社会の人権意識をうつす鏡として光り続けている。
2022年、水平社宣言から100年の節目に当たり、私は西光万吉の作品を調べようと思い至った。きっかけは、晩年の自画像とされる掛軸《毀釈》の謎に惹かれたことと、冒頭の上野での出来事に心を揺さぶられたからだ。私は東京藝術大学の大学院に通っていたため、上野で過ごすことも多々あった。100年と少し前、同じ美術家としての志をもって上京した者が、差別のために道を絶たれることがあっていいのかと胸が痛んだ。
かくして私は、奈良県御所市の水平社博物館と、隣接する西光万吉の生家・西光寺、そして和歌山県紀の川市の西光万吉顕彰会を訪ね、西光作品の調査を行った。完成度の高い絵画作品や、残されていたスケッチや試し書きからは、専業画家とはならなかったものの、創作が片手間ではなかったことが窺えた。定期購読した美術雑誌には、模写やコラージュに活用したとおぼしき痕跡もあった。
西光万吉は美術を通して何を表現しようとしたのか。たんに「上手い絵」「美しい絵」を描こうとしたのではない。すでに足立元の研究において言及されているが、西光は自身が関わる様々な活動に絵を活用した。絵の影響力を知っていたのだ。表現したものを他者がどのように見るかという視点が、つねにあったと言える。
僧侶が仏像や仏具を焼いて暖を取る様子を描いた《毀釈》は、西光の自画像だといわれる。画家自身を描く自画像は、近代以前の日本にはほとんど見られない。明治以降、この国に西洋式の美術教育制度が立ち上げられるなかでもたらされた自画像は、美術制度をつうじた近代的自我をめぐる実験の場でもあった。
西光の自画像としての《毀釈》は、まさに本歌取り、換骨奪胎の作だ。本作の主題は、禅画の画題「丹霞焼仏」である。丹霞焼仏は、日本美術史の嚆矢、岡倉天心(覚三)『茶の本』にも引かれている。
丹霞和尚は大寒の日に木仏を取ってこれを焚いたという話がある。かたわらにいた人は非常に恐れて言った、「何ともまあもったいない!」と。和尚は落ち着きを払って答えた、「わしは仏様を焼いて、お前さんたちのありがたがっているお舎利を取るのだ」「木仏の頭からお舎利が出てたまるものですか」とつっけんどんな受け答えに、丹霞和尚はこたえて言った、「もし、お舎利が出ない仏様なら、何ももったいないことはないではないか」そう言って振り向いて焚き火にからだをあたためた。
(岡倉覚三『茶の本』村岡博訳、岩波文庫、1929年)
《毀釈》において僧侶として描かれた西光は、丹霞和尚と同様に仏像を焼いた。しかしながら、その意味は反転している。丹霞焼仏の話とは、仏像など偶像によらない真の仏教の教えを説くものであって、釈迦の教えをそしる意味はない。しかし西光は丹霞焼仏を描きながら、「毀釈」と題をつけた。しかもここでは、寺の長男として生まれるも、僧侶となることができなかった己が、自ら依拠するもの、仏の教えを自らの手で打ち捨てる姿、転向者の姿が描かれた。
解放運動の創始者である西光は、転向者だと言われる。1929年秋、日本共産党に入党した西光は、三・一五事件により投獄され、獄中で国家主義者へ転向したとされる。出所後は水平運動から距離を置き、大日本国家社会党に入党した。1938年『新生運動』第8号では、自身が起草した水平社宣言と帝国主義下での侵略を正当化した「八紘一宇」とを接続し、「今や我らは『人間に光あれ、人世に熱あれ』の願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に邁進せんとする」と書き、全国水平社を「国体の本義に基きて更に反省せよ」と批判した。戦後は侵略戦争を支持した己に厳しい反省を加えるが、天皇の責を問うことはなかった。天皇制のもとの不戦・平和思想の実践は生涯続いた。
転向について、吉本隆明は1958年『現代批評』創刊号に「転向論」を寄せた。ここでの方法論は、鶴見俊輔を発起人とする転向研究会のそれとは異なるものであった。鶴見らは転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義し、思想弾圧など外発的要因を重視した。一方、吉本が重視したのは内発的条件、すなわち自発性だ。こうして外発/内発なる二項対立で転向を捉えることは妥当かを、西光の「転向」は問い返す。
日本共産党に入党したとはいえ、西光にとって天皇への敬意はつねに身近なものであった。西光の「転向」はそう単純なものではない。その複雑さは、《毀釈》の僧侶となった西光の不敵な「笑み」によくあらわれている。この西光の笑みは、転向の完遂への満足にも、転向それ自体への反語表現にも取れる。
西光にはわかっていたのだろう。《毀釈》を前に、私たちがその謎に迫ろうとすることを。西光によるマンガ表現や絵画は、画家としての西光の存在も被差別部落の存在も、これまでまったく不可視化してきた日本美術史への一石になりうる。
1913年の春の夜、部落差別を前に眠ることができなかった画学生がいた。あの日、彼は自画像を描ききることができただろうか。西光に言葉をかけることはできないが、なかったことにはしないと、それだけは言える。
IMADR通信221号 2025/2/26発行