2024.07.1

Intersectional Feminism #5 他者を受け止め、他者を知ろうとする心の開きが必要 ー 関根摩耶さんにインタビュー

今年始まったシリーズ、インターセクショナル・フェミニズム。「女性」と一言で言っても違いや多様性、様々な側面があり、真のジェンダー平等は「すべての女性」にとって平等になった時にのみ達成されうる、という想いを持って始めました。

第5弾としてお話を伺ったのは、北海道央南部、日高地方平取町二風谷(にぶたに)で生まれ育った関根摩耶(せきね・まや)さん。沙流川中流域に位置する豊かな山と川に囲まれて育ちました。

(写真:インタビューに答えてくれる関根摩耶さん)

心に残っている幼い頃の思い出はなんですか?

「私の家族は食べることをとても楽しんでいました。食材を採ったり集めたりすることから食べることまでの工程を含み、一定のルールがあります。スーパーでは手に入らないような食事が並んでおり、夜には多くの人が集まって一緒に食卓を囲みます。会話を大切にしながら食事を楽しむというのは、二風谷らしさ、私の家族らしさです。周りの人からもらった言葉はよく覚えています。例えば、ばあちゃんは『死ぬまで勉強』、『苦労は勝手でもしなさい』というのが口癖でした。」

それらの言葉は摩耶さんの活動の軸にもなっているのですか?

「そうだと思います。アイヌのことに限らず、人との繋がりのおかげで活動が続けられます。その人間関係における自信は、家族がくれた言葉からきていると思います。また、家族の生き方にも影響を受けています。例えば、父はいつも『痛みを知れ』と言っていたし、母は自分自身の生き方を大切にし、人生の楽しみ方を教えてくれました。これら全てが今の私や私の活動につながっていると思います。」

アイヌ語を教えるお父さん、アイヌ工芸家のお母さん、アットゥシ 織の第一人者であり、アイヌ料理屋も営んでいたばあちゃんなどアイヌ文化と関わりを持ちながら育った摩耶さん。

小さい頃、家族がおこなっていた活動に参加しましたか?

「そうですね、でも 『参加』というよりは生活の一部です。日常生活の中で山菜を採りに行ったり、保存会で舞踊があれば踊りました。また、教室で歌を歌ったり、アイヌ料理も小さい頃から食べたりしていました。なので子どもの頃から、アイヌの言葉、文化、精神が、分け隔てる暇もないほど自分の周りに散らばっていました。あらためてアイヌの勉強を始めてからは、これはアイヌのもの、これはアイヌ語、これはアイヌ料理というように自分の中で分類するようになりました。」

12歳までは二風谷(にぶたに)、中学は登別(のぼりべつ)、高校は札幌、大学は関東と摩耶さんは様々な場所で暮らしてきました。

様々な場所で暮らす中で、自分のもってきたものとの違いや発見はありましたか?

「世界観の違いは感じました。世界の見方が他の人より少し広いかもしれないと感じることもありました。例えば、『自然を守る』というのは、自然を自分から距離を置いて捉えています。だから『守る』という感覚が出てくると思います。しかし、私にとって自然は自分から遠い存在ではなく、切り離せないとても近いものです。私は時々、こうしたスローガンや授業中に先生が使う言葉などに疑問を抱きました。どちらが正しいということではなく、私が感じた違いです。さまざまな正義の中で、私が見たものは他の人とは違っていたと感じることもあります。」

そのような異なる世界観に出会った際にジレンマを感じたことはありますか?

「ないですね。先述したように、私が育った二風谷は多様な人が出入りする場所だったので、人びとが異なる感覚を持っていることを知っていました。また、相手に理解してもらうためには、受け入れる必要はないかも知れませんが、相手の意見を『受け止める』必要はあります。そうでないとコミュニケーションは成り立ちません。どんなに努力しても他者を完全に理解することはできません。それゆえに他者を受け止め、他者を知ろうとする心の開きが必要です。私のルーツと幼少期の環境が、そのことを痛感させてくれました。外の世界に出るにつれ、それをより意識するようになりました。」

子どもの頃から、心の開きを持っていたのですか?

「そうだと思います。私の家族がアイヌ文化をそのように捉えていました。根底には社会や誰かに対する不満や憎しみがあるのかも知れませんが、私の家族は情報を発信し、まず好きになってもらって、その人たちが一緒に活動をしたいと思う、というように仲間を増やしてきました。その姿を見てきたので、私もアイヌの摩耶ではなく、関根摩耶という人間と一緒に仕事をしたいと思ってもらえるような関係を築きたいです。そのように仲間を増やして、民衆の声が行政に変化をもたらすといいと思います。」

理想的な社会構築への近道になるかも知れないと思い、大学に進学したと話してくれた摩耶さん。

理想的で豊かな社会をどのように思い描きますか?

「世の中が便利になる一方で、ストレスに悩まされたり、自分の価値を見失ったりする人が増えているように感じます。生きるだけでなく、自分の立場や地位、権力、他人からどう見られるかなど様々なことを気にする時代です。何が豊かかなんて誰にもわかりませんし、幸せの定義は誰にも決められません。ただ、アイヌ文化から学べる幸せもあると思います。それは、今の資本経済に逆行する、『ナイフ一本さえあれば生きていける』力かもしれません。どんな文化にもそのような豊かさがあります。日本で先住民族として認識されているアイヌの文化は、異なる考え方や新たな視点を与えてくれるかもしれません。また、アイヌ民族の場合、外から土地を奪われ、アイヌ語も危機に晒されたという側面だけ見られることもあります。しかし故郷の二風谷には、先祖から確実に受け継がれてきたものがあります。『なんとかなる』という感覚や様々な精神的な教えがアイヌの人々に根付いていると感じます。外から分類された名前としての民族性が残らなくても、言葉、見た目、住んでいる場所が変わっても、先祖が人間として持ってきた大切な核となる感覚や価値観が受け継がれたら良いと思っています。それで最終的にアイヌの教えが民衆に理解され、行政もアイヌの感覚を認めて変わっていけばラッキーくらいに思っています。様々な生き方、考え方があって良いと思います。そんな多様で色鮮やかな考え方や生き方が自然と次の世代に受け継がれていく、そんな未来を描いています。」

Youtube やラジオ、講演会など様々な活動をしてきた摩耶さん。普段使いしたくなるような今のアイヌ工芸の魅力を広めるため、母親とともにアイヌ工芸品の会社(katak)を立ち上げました。

katak を立ち上げようと思ったきっかけはなんですか?

「価値付けのためです。最近やっとアイヌに対する認識が広まり、アイヌのことを勉強したい、アイヌに関する仕事をしたいという若者が増えてきています。しかし、日本の伝統工芸や語学もそうかもしれませんが、現実にはその分野でキャリアを築くことや生計を立てることは難しいです。なので私は、それを仲介して、価値をつけていく仕事をしたいです。それと同時に、アイヌが持つ知恵や豊かさを発信していきたいです。世界の一部では先住民族が生み出したアートや伝統文様は、単なる民芸品やお土産ではなく、アートとして高値で取引されています。しかし日本では、日本経済を支えてきた美しい工芸品があるのに、後継者がいないし、需要もありません。なので、工芸品、私にとってはアイヌ工芸品で、生計を立てられる人を増やしたいです。」

一緒に活動を行う人は同年代の人が多いのですか?

「祖父母や両親の世代から子どもまで、さまざまな人たちと仕事をしています。年齢も立場もルーツも関係なく、目的を共有できる人と一緒に活動します。アイヌ人であるかどうかは関係なく、目的が同じであったり、直感的にその人と一緒に働きたいと思ったりすることが大切です。」

今までの活動の中で印象に残っているものはなんですか?

「いろいろありますが、最近始めたウポポイラジオは面白いと思います。というのも、ラジオではアイヌである私が他のアイヌにルーツを持つ人にインタビューした模様を話します。今までのメディアは、アイヌのことをあまり知らない人がアイヌにインタビューして番組を作るというやり方が多かったです。しかし、その意味でこのラジオは、アイヌの人たちが、多少の制約があっても、自分たちの声を自分たちの伝えたいように語ることができる場になっています。活動を通して、関係者が関わることの重要性を再認識しました。マジョリティへのわかりやすさだけを求めるメディアは、少しずつ変えていくべきだと思います。そういう意味では、一から分解してわかりやすく伝えるというやり方は、ちょっと古いかなとも思います。それよりも、会話の中には個人的な話であったり、笑い話であったり、もっと面白い部分があります。そういう話が伝わればいいと思います。」

活動で一番大切にしていることは何ですか?

「自分自身が楽しむことを大切にしています。学んだり、話を聞いたり、本を読んだり、新しい人と出会ったり、いろいろなことを通して、自分のルーツや育った環境も含めて自分を好きになることです。だから、自分自身や周りの環境を好きになり続けることが大事だと思います。」

「アットゥシ」の「シ」は小文字 

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