モンゴ・シュトイカーの詩集

金子 マーティン
反差別国際運動事務局次長

 

シュトイカー家
インド発祥の少数民族、ロマ民族は多くの下部組織によって構成されているが、そのような下部組織のひとつがロワーラと呼ばれる。馬ば喰くろうがその伝統的生業で、ロワーラという名称はハンガリー語のロ=馬に由来するといわれる。シュトイカー家はロワーラ系ロマに属する。ハンガリーからオーストリアへのロワーラの移住は2波あったが、その第1波が19世紀80年代で、シュトイカー家の先祖はそのころにオーストリアへ移住した。馬を売買する目的でオーストリア各地を移動する生活を1938年ごろまでつづけたが、同年3月にオーストリアは無抵抗のままナチス・ドイツに「合併」され、翌年から移動生活は完全にご法度になった。

オーバーエスターライヒ州はウィーン州の西方に位置するが、『オーバーエスターライヒと「ジプシー」』という研究書(2010年発行)がある。「営業許可証と身分証明書の双方を所持し、かなりの額の金銭も持ち歩いているため、治安警察が介入できる根拠を見出すことができなかったシュトイカーという馬喰家族」にかんする史料(1914年4月)が同書に載っている。また、同書掲載の1932年8月の史料にも「ウィーン市当局が発行した馬喰の営業許可証を所持するジプシーのアントン・ペーター・シュトイカー」が登場する。同姓ではあるものの、モンゴが所属するシュトイカー家とその人物は親戚関係にないと思われる。なぜなら、ナチス強制収容所から生還した「歴史の生き証人」のシュトイカー家の兄妹3人は、それぞれ体験記を公表しているが、そのいずれにもその名が登場しないからだ。ちなみに、ロワーラ系ロマの移住第2波は1956年のハンガリー騒乱に際して、難民としてオーストリアへ逃れたロワーラ系ロマたちだった。

 

ナチス体制
1938年3月12日から1945年4月27日までの7年間、オーストリアでナチス恐怖体制がつづいた。ウィーン市南端(第10区)の草地ヘッラ・ウィーゼは18世紀ごろから市公認のロマ停留地だった。1938年当時シュトイカー家はその草地で家馬車生活をしており、そこからモンゴは通学した。ところが、1939年10月17日に移動禁止令が発布された。そこでシュトイカー家は馬車を解体、その木材を使った小屋をウィーン市第16区パレッツ小道の知り合いの空き地に建て、国家権力が求めた定住生活者になった。「毎日ロマが逮捕されたと耳にしたので、お母さんは1942年からわが家の壁にアードルフ・ヒットラーの肖像画と小さなカギ十字旗を掲げました」(モンゴ
の自伝『紙製の子どもたち』から)。そのような日和見にもかかわらず、シュトイカー家の全員がナチス迫害を被った。ナチスが「劣等民族」に分類した「ツィゴイナー」に属したからだ。

1940年にゲシュタポに逮捕されたモンゴの父親ワッカー(1908-1942)は、マウトハウゼン強制収容所で殺された。父方祖母のバランカ(1874- ? )も1941年にゲシュタポに逮捕され、おそらくポーランド・ウッジのゲットーで死んだ。ほかの家族員、母親スィディ(1906-1979)と5人の子どもたち、ミッツイ(1925-1974)、モンゴ(1929-2014)、カー
ル(1931-2003)、チャイヤ(1933-2013)、オッスィ(1936-1943)は、1943年3月に逮捕されてウィーンの監獄に収監後、列車でアウシュウィッツ・ビルケナウ絶滅収容所内BIIe区域、すなわち「ジプシー家族収容所」へ移送、1年半近くもそこで拘禁された。収容所で蔓延した発疹チフスに感染したオッスィは、わずか7歳で亡くなった。そのころ、次女のカティ(1927-1999)はすでにブルゲンラント州ラッケンバッハの「ジプシー収容所」に囚われていたが、そこからアウシュウィッツ・ビルケナウの「ジプシー家族収容所」へ転送された。

1944年8月2日夜、「ジプシー家族収容所」は〈整理・粛清〉の対象になった。2,897人のロマがガス室で毒殺され、強制労働力として利用価値があると見なされたシュトイカー家は一命をとりとめたものの、分断された。女性たちは女性専用収容所ラーヴェンスブリュックへ、モンゴと弟のカールは労働収容所ブーヘンワルトへ。モンゴの自伝に「1944年9月3日、ブーヘンワルト到着」とある。

 

モンゴ・シュトイカーの詩
ブーヘンワルト強制収容所へ行ったことはあるかい
キミは、
あそこはとっても寒い。
民間人として入所したけど、
5 分もすれば囚人。
まず衣服室へ通される、
恐さのあまり口のなかは生唾ばかり、
申し分ない服をあずけ、
屑のような服を渡された。
大木のように突っ立つ男が、
シャワー室へ入れという。
おまえは美しい長髪をしているが、
はげ頭のほうがよく似合う。
それから自分の居住バラックへ連れていかれ、
まるたんぼうに腰かけると、
遠くにいる友人の声が聞こえた。
旧友モンゴよ、
最初は上品な身形の男だったが、
今のおまえはまるで濡れネズミ。
ああ、旧友クラウスよ、
それでも俺らはもう一度娑婆に出られるだろう。

この詩の最初の2詩節(最初の9行)はモンゴの自伝、『紙製の子どもたち』の170ページに載っている詩と同じである。

 

詩集がロンドンに辿り着いた経緯
ブーヘンワルト強制収容所でのモンゴのカポ(監視役)はベルギー出身の共産党系政治犯、ゲオルゲス・ヘベルニックだった。思いやりがあったヘベルニックは、空腹に苦しんでいた当時15歳のモンゴの詩集をパン一斤と交換した。ブーヘンワルト強制収容所を生き延びたヘベルニックは1964年死去、モンゴの詩集も含む彼の遺品をベルギーの労働運動資料館が保管することになり、そこからベルギーのカゼルネ・ドッスィン・ホロコースト記念館へ移管、最終的にロンドンの帝国戦争博物館が所蔵することになった。なお、モンゴの詩集の所在を2023年夏にシュトイカー家に通知した人物は、ウィーンの戦争犠牲者をしのぶ会メンバーのカルロ・ソッセラだった。このようにいくつもの幸運が重なり、モンゴの子孫は亡父の詩集を目にすることができた。

ヘベルニックという名のカポはモンゴの自伝に登場しないが、「ブーヘンワルトのカポのなかに例外的な人物がいた。その人は赤い逆三角形をつけられた『政治犯』だった。…そのカポが収容所被拘禁者を殴打するような場面を目撃したことはない」と書かれている。ヘベルニックのことをいっている可能性が高いと思われる。

 

モンゴの子どもたちと孫の喜び
モンゴの長男ハリ・シュトイカーは、『ジプシー・スピリット ハリ・シュトイカーの旅』(2010年)という日本語字幕(反差別国際運動)もある映画の主人公でもある著名なジャズ・ギタリストだ。2024年1月にハリのロンドン公演があり、そのときハリと二人の姉、ドーリスとスィッスィ、妻のヴァラリーと画家の姪ユーリア(スィッスィの娘)は帝国戦争博物館を訪れ、父と祖父モンゴが残した詩集をはじめて目にした。
「1944年秋から翌年春にかけて父が強制収容所という現場で書いた詩集は、ボクにとって『アンネの日記』と同じくらいの価値があります。発見された父の詩集は、われわれ5人にとって言葉で言い尽くせないほど大きな衝撃でした」と、ハリはその喜びと驚きを隠せなかった。
1946年にウィーンへ生還したモンゴにとって、ロマ民族文化の保存と伝承は重大な関心事でありつづけた。そこで『ロワーラの民話』も著した。