連載 「抗する」を考える④

親川 裕子

非常勤講師・IMADR特別研究員

 

戦後の沖縄で、国際養子縁組をはじめとする、二国間以上に跨る家族問題(結婚、離婚、妻子の養育問題や遺棄など)の相談を担う機関として「国際福祉相談所」(以下、相談所)があった。スイスに本部を置く国連の外郭団体「国際社会事業団」の沖縄代表部(International Social Service Okinawa:ISSO、相談所の前身)として1958年11月に設立された同組織は、組織改編、名称変更が行われながらも98年3月に閉所するまでの40年間に、およそ2万3千件のケースを取り扱った。主に米軍人・軍属の男性と沖縄人女性たちのあいだで生じた問題に、約30年間、相談所のケースワーカーとして尽力した平田正代(1939〜2022)を紹介したい。

 

「地に足のついた仕事」 ― 転換点となった「安保闘争」 ―

貿易関係に従事する父親の都合により東京で生まれた平田は、戦後、家族で沖縄へ引き揚げ、那覇市内の小中高校を経て、早稲田大学文学部に進み英文学を学んだ。しかし、大学3年で安保闘争に直面し、その後の平田の人生が大きく変わる。当時、大学は休講が続き、平田は往復の電車賃だけを服のポケットに入れ闘争に参加する。その時、沖縄の状況を突きつけられた思いがした平田は大学卒業後、「地に足のついた仕事」として社会福祉を学ぶため留学を決意し、米国の大学院で社会福祉を学んだ。帰沖後しばらく琉球列島米国民政府広報局に勤務した後、67年にISSOにケースワーカーとして勤め始めた。相談所の資金は補助金や寄付などで賄われており、平田たちスタッフへの給与は基本的に時給制で十分とはいえず、平田自身も相談所ケースワーカーと法廷通訳、医療系専門学校の福祉科目の講師や県人材育成センター同時通訳講座の講師といくつもの仕事を掛け持ちしながら、様々な講演や研修会の講師なども精力的に務めていた。平田は仕事に子育てにと多忙な中で、80年代後半には米軍基地内の大学院の講義も受講している。学び直しに挑戦するという熱意にも舌を巻くが、「地に足のついた仕事」を極めようとする平田の真摯な姿が見て取れる。

 

国籍法改正へ ― 「沖縄からの提言」 ―

1979年の国際児童年にあたり、相談所は「国際児童年 ─ 沖縄からの提言」を発表した。当時、父系血統主義の国籍法によって、日本国籍の母親と外国籍の父親のもとに日本で出生した場合、子どもは日本国籍が得られず無国籍となるケースが後を絶たなかった。というのも、父親が米国籍であっても、米国移民法に基づき、父親が米国居住要件の期間を満たさない場合、子どもが米国籍を得られる手段がなかったためである。加えて、米国籍を持たない移民の米軍人・軍属であった場合には、米国領事館でも管轄外となり、子どもの無国籍状態が解消される手立てが無かった。
この状況に対し、平田は提言で日本の国籍法改正を強く求めた。加えて、家族扶養義務、いわゆる養育費の完全なる支給履行を求めて、日米間における相互協定締結の必要性や、無国籍児となっている児童に対する教育費、生活費補助といった児童福祉基金の創設を提言した。
そして、平田は83年に大阪法務局で行われた「国籍法改正について意見を聴く会」へ招聘され「国籍法改正中間試案への現場からの問題提起」として発言しているが、後に当時の状況を「あくまでも『聞き置く』に過ぎない対応だった」と振り返っている。それまで国は無国籍児の国籍取得について、国籍法改正議論に立ち入らせまいとして、「帰化をすればよい」という姿勢を崩さなかった。無国籍の者が帰化申請をすることは、同時に「無国籍であることを証明する」つまり「無いことを説明する」ということであり、それ自体、容易ではなかった。にもかかわらず、帰化をするかしないかという議論にすり替えること自体、暴論ともいえる状況が罷りとおっていた。
取り残された無国籍児問題と子どもの権利
その後、85年の国籍法改正によって父母両系主義となった。また、経過措置として、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であった場合において、子が「20歳未満のもの」は届出により日本国籍を与えるという条文が挿入され、それまで無国籍状態であった子どもたちは日本国籍を得られることになったものの、改正時に20歳以上の人々には経過措置が適用されず、無国籍状態は解消されないままとなった。平田らは国籍法改正に一定の評価を与えつつも、釈然としない思いの中で帰化手続きの対応に追われた。
加えて、沖縄の無国籍児問題は、当時、女性差別撤廃条約の批准に向けて取り組んでいた女性たちによって「女性の権利」という潮流に呑み込まれていった。結果的に国籍法が改正された点は評価できるものの、無国籍児の解消という主目的は後景化され、女性の権利問題へと転化されていったといえる。相談所が発した「沖縄からの提言」が訴えた子どもの権利への理解がどの程度、日本国内で共有されたのか、確認、検証しておく必要があるように思う。

 

生活を破壊する米軍基地

1997年には東門美津子副知事(当時)を団長とした「基地問題要請女性訪米団」に相談所長の立場で参加している。現地の懇談会で米国人、日本人出席者から「アジアの安定秩序のために在沖米軍基地は必要」、「日米安保を担う国民の一人としてどう考えているのか」、「感情論だけの基地撤去は意味が無い」との非難に対し、平田は生活者の意見として、「子どもや家族の安全を第一に、日々、幸せな暮らしを求めている。人権侵害を改善したいと思うのは当然。しかし米軍基地が私たちの生活を破壊している。その事実を訴えに来た」とし、日米安保云々というなら、防衛や外交の専門家である皆さんの仕事だ、と一蹴した。相談所へ持ち込まれる相談のほとんどが米軍基地から派生する問題であり、時に、米軍側の協力を得なければならないこともある。声高に米軍を非難することが憚られたであろうことは想像に難くない。それでもなお、「米軍基地が私たちの生活を破壊している」とまで言及したのは、懇談会における米側出席者の、在沖米軍基地から派生する事件や事故への無知、軍事基地の存在による人の交流が結婚や出産というプライベートなことにまで及び、時に解決困難な問題を引き起こしていることに対する無理解に憤った平田の本心からの抵抗の発言だったのだと思う。

 

平田の残したもの

平田は自身が保管していた相談所の資料を2009年および2014年に沖縄県公文書館に寄贈しており、現在、「国際福祉相談所文書」として一部閲覧が可能となっている。閉所時、資料は大部分が焼却処分されたため、平田が寄贈した資料のみで相談所の全容を把握することは叶わないが、戦後、沖縄における国際福祉事業を把握する意味で重要な意味を持つ資料であることは論を俟たない。
平田はケースワーカーとして、日本と、とりわけ米国の関係諸法に精通し、堪能な語学力を駆使して相談者の問題解決に尽力したが、当の本人は「ただ自分の仕事をしただけ」と驕ることがなかった。一方、法務局や関係機関との交渉では「誰もやらないのなら、私がやらなくて誰がやるの」との思いから、労力を惜しまなかった。それは平田の「貧しい沖縄人のうえに戦勝者として君臨する豊かな米軍と、高等弁務官を頂点とするその絶対統治への不満や憤りが、非難や蔑みとなってこれらの女性たちに向けられ、さらにもっと弱者である混血児に向けられたのである。」との思いと繋がる。困難を抱えさせられた女性や子どもたちの人生に伴走した平田にまた、学ぶべき「抗する」在り方があるように思う。

●おやかわ ゆうこ

【参考資料】
『月刊青い海』通巻93号、青い海出版社、1980年6月
『戦後沖縄の社会変動と家族問題』新崎盛暉・大橋薫(編著)、アテネ書房、1989年
『沖縄 社会を拓いた女たち』高里鈴代、山城紀子、沖縄タイムス社、2014年
「資料群紹介:国際福祉相談所文書について」麻生清香、『沖縄県公文書館紀要』(23)、沖縄県公文書館、2021年3月