連載「抗する」を考える③

親川 裕子

非常勤講師・IMADR特別研究員

戦後沖縄における「福祉の母」
終戦直後の沖縄で、いち早く子どもたちの福祉に取り組んだ島マス(1900-1988)。深い皺の入った額、メガネをかけたその眼差しはどこか憂いをたたえながらも、人の本質を見抜くかのように鋭い。戦前、教員であった島は沖縄戦で二人の子どもを失い、戦後は地域の子どもたちの厳しい状況を目の当たりにし、まもなく教職を離れ福祉の道を歩み始める。戦争によって多くの建物が灰燼に帰し、住処もままならない中で、自身も決して裕福とはいえないにもかかわらず、私財を投じて自宅を子どもたちの保護所とし、多くの子どもたちを守った。戦争孤児もいれば、貧困にあえぐ家庭の子たちもいた。家でも学校でも放置され、飢えとの闘いからやむにやまれず食料を求めて盗みをしたことで、非行、不良といわれた子どもたちを迎え入れた。時に、島の保護所を逃げ出し、盗みを働き、戻される子どもたちもいた。戦後すぐ、生きるために必死なのはおとなも子どもも同じだった。ただ、脆弱な者たちにそのしわ寄せは大きかった。島は夫と息子とその妻、そして自身の娘たちや姪、親類らとともに、それこそ一家総出でただひたすらに子どもたちの保護に努めた。沖縄で「福祉の母」と称される島マスの実践から抗するありかたを確認したい。

伴走者として、状況に抗する同志として
1950年6月に朝鮮戦争が始まると沖縄の基地建設が増加、在沖縄米軍基地は朝鮮への発進基地となり、街には米兵があふれていた。夜昼問わず、米兵が民家に押し入り女性たちが暴行される事件も後を絶たなかった。基地の街、コザには売春をする「特殊婦人」も多く、民家を間借りして米兵を連れ込んでいた。民家には中高生の子どもたちも多く、子どもたちにとっても、いい環境であるはずはない。恐怖に怯える女性たち、子どもたちへの影響を考えると何らかの対策が必要なことは明らかだった。次第に、「環境浄化」と「青少年非行防止」のためとし、米軍、行政と地域が一体となり街外れに「特殊地域」を作るということになった。当初、「特殊婦人」らに地域には子どもを連れていってはいけないことを約束させていたものの、次第に連れてこられる子どもたちが増え、子どものたちのための公民館ができ、地域の教師が面倒を見る学習の場となった。島らは地域の状況を勘案し、子どもたちへの影響を重視し、長期欠席、非行児を出さぬようにと子どもたちのケアにあたった。
他方、婦人連合会の女性たちがメガホンで「売春はやめてください」「売春は悪いことです」と呼びかけていた。無論、耳を貸す「特殊婦人」はいなかった。売春が悪いことは誰だって知っている。背に腹は代えられない。多くの「特殊婦人」らは戦争で夫を失い、子どもたちだけでなく、父や母らをも抱えていた。夜も昼も働かなければ食べていけない時代、多くの女性たちにとって、売春でもしなければとても生きていけなかった。身を削る切なさを嘆く余裕すらなかったのである。「やめろ」というのは簡単であり、必要なことは売春に代わる職業を与えることだと、島らは寄付を募って編み機を購入し「特殊婦人」らに転業を勧めた。しかし、転業するにも仕事は少なく、取り組みは容易ではなかった。
ある夜、島が困窮世帯の家を訪問すると、子どもたちだけを家に残し、母親が身を売っている母子家庭があった。悲しみと怒りで胸を塞がれた島は琉歌を残した。「いくさ世どでむぬ 誰ゆ恨みゆが 生し子むい育て 肝に染みり」〈意訳:戦争だったことを 誰を恨むこともできないが(母親が自分の体を犠牲にしてまで)生き残った我が子を健やかに育てなければならない(と奮闘する姿とこの状況を)深く心に刻まなければ〉子を思う親を、慮る島。誰も好き好んで就いている仕事でないことはわかっている。どれほどまでに心身が擦り切れることだろうか。そうまでして子を養い育てようとする母親への共感が滲み出る。翌朝、もう一度、島が家を尋ねると、母親は涙ながらに売春していることを語った。島の母親への眼差しは、母親たちの状況の厳しさを理解し、ともにこの状況を乗り越えて行こうとする伴走者のようであり、状況に抗する同志のようでさえある。

チムグリサン—島マスの理念
50年代初め、米軍基地に入って窃盗の疑いで捕まった子どもたちは軍裁判にかけられ、窃盗罪で有罪となり刑務所に送られていた。当時の沖縄では児童福祉法も少年法も制定されておらず、米軍の裁判でも少年たちを保護し指導するという認識が無かった。厚生員を務める島は、あまりにも配慮が無さ過ぎると、素手で軍裁判に立ち向かう。地域の厚生員に子どもの家庭環境や成育歴、生活状態、扶助の有無などを調書にまとめさせ、厚生員の意見を付記し軍裁判に提出。最後には「私がこの子を更生させるから釈放してください」と嘆願して子どもを引き取った。
しかし、家庭環境に複雑な問題を抱える子たちも多く、ただ家庭に引き戻せば済む話でもなかった。中には両親がおらず食べ物もないと、二度三度と軍裁判で顔を合わせる子どももいたという。そんな子どもたちを島は自宅に連れ帰り面倒を見るようになった。「チムグリサン(心が痛む)」に耐えかね、そうするしかなかったと振り返る。そうして島は夫と家族とともに、多くの人々の援助と協力によって、社会福祉協議会の施設として、1952年に子どもたちの一時保護所「胡座児童保護所」を開所することができた。
島は続いて1953年に女子救護施設「コザ女子ホーム」を設立する。児童保護所は男女一緒だったが、長期にわたって保護しなければならないケースもあり、男子は職業学校なりに進むことができたが、女子の救護施設が無かった。島は、かねてより女子児童に対する福祉の必要性を認識していたUSCAR(琉球列島米国民政府)の社会事業課長に相談し寄付金を得ることができ、島自身も親戚、知人友人から借金をして資金を集めた。島は、地域に施設をつくることに反対する人も出てくるのではないかと懸念し、街の人びとにカンパを募りながら事情を訴えて理解を得るようにした。島の懸念は杞憂となり、むしろ地域の人びとからの惜しみない支援、助力を得ることとなる。子どもたちの生活、職業指導から英語や国語、算数といった科目から、図画、音楽、園芸、和・洋裁などあらゆる授業がボランティアで行われ、子どもたちの巣立ちを支えた。

受け継がれる島マスの理念
女子ホーム設立後、市町村社協の後進育成の指導にあたって欲しいと請われた島の手腕は中部地区社会福祉協議会の事務局長として存分に発揮されることとなる。地域の実態調査を行い、データ化して状況を分析、ニーズを把握し、公的扶助の必要性を可視化することで行政から予算をつけさせ、福祉の理念を具現化していった。次々に仕事を持ってくる島に辟易する職員もいたようだが、状況の改善は一目瞭然だった。これからの福祉を担う若いスタッフに福祉の理論などを伝える勉強会はいつの日か「島学校」と呼ばれるようになっていた。
島が活躍した地元、沖縄市社会福祉協議会は島亡きあと1993年に「島マス記念塾」(2016年廃止)を開設、島マスの理念を受け継ぎ、地域に貢献する人材を育てる活動が23年間続けられた。人の痛みをわがことのように思う「チムグリサン」の精神と、理論に裏付けられた実践を以て地域の人々の暮らしを変える。福祉の現場のみならず、議員や農業、商工、金融など幅広い分野で活躍している400名以上の卒塾生が、よりよい社会の実現に向け、状況に抗する実践を続けている。

●おやかわ ゆうこ

【引用・参考資料】
『島マスのがんばり人生― 基地の街の福祉に生きて ―』島マス先生回想録編集委員会編集・発行、1986年
『私の戦後史』第3集、「島マス」、沖縄タイムス編集・発行、1980年
『証言で学ぶ「沖縄問題」観光しか知らない学生のために』「「沖縄福祉の母」島マスー受け継がれるチムグリサンの心」、中央大学出版部発行、2014年