連載 「抗する」を考える②

親川 裕子

非常勤講師・IMADR特別研究員

 

「男と同等の権利を与えない限り女の悲劇はなくならない」
沖縄で最初の女性医師である千原繫子(1898~1990)について、沖縄タイムスで編集局長を務めた由井晶子(1933~2020)はこう記している。「『婦人参政権』というと、私たちの年代は沖縄初の女医、千原繁子さんを思い出す。昭和初期といえば、男でも医師は最高の社会的地位を誇ったものです。ところが1925年に普通選挙法が公布され、従来、高額所得者だけにあった選挙権が広げられたのですが、権利を与えられたのは25歳以上の男性だけ。最高学府を出ていても女性には認められなかったわけです。千原さんお抱えの人力車夫が『シンシー(先生)、だれに入れたらいいでしょう』と聞くんですね。文字も書けなかったんです。『トートー、だれそれに入れなさい』と、紙に書いてなぞらせる千原さんには選挙権はない。こんなことってあるかと、千原さんは戦前の悔しい思いをよく語っていた。」(2000年9月20日付 沖縄タイムス)
図らずも、沖縄における女性の参政権は日本に先立って終戦直後、米軍占領下の1945年9月に付与されることとなる。しかし、これはかならずしも「アメリカン・デモクラシー」の恩恵などではなく、戦争によって多くの男性住民が亡くなり、残された世帯の多くが女性と子どもで構成されていたという歪な人口構成に基づく。
当時、沖縄戦によって失われた沖縄県庁に代わる中央執行機関、および米軍政府の諮問機関として、15名の沖縄人男性らを以て設置された沖縄諮詢会(1945~1946)では、「婦人参政権は時期尚早」、「民法でも女子を個人として認めていない」とし委員の過半数が女性参政権に反対していた。女性たちの中でも参政権について「面倒くさいことをさせる」「戦前は無かったのに」と投票することを嫌がる声もあったという。戦前の、女性に学問は要らない、政治に口を出すことはみっともないという教育意識のもとで育ってきたからこその女性たちの声であった。
様々な声を含みながら、千原は戦後、医師として従事するかたわら婦人運動にも関わり、民法改正運動に取り組んだ。「千草会」と名付けられたその会は、毎月一回の集まりを持ち、時には男性の政府関係者を招いて女性問題に対する意見や対策なども話し合った。背景には、女性を無能力者扱いとする旧民法が横たわっていた。多くの女性たちは、戦争によって失われた夫や父に代わって一家を養っているにもかかわらず、資金の貸し付けが受けられない、財産保持が認められないといった状況にあったからだ。参政権のみならず、生活実感としての不都合が解消されない限り、男女同権は成し得ない、千原のその思いを共有する女性たちとともに、民法改正に向けた強い流れができていった。その後、日本に遅れること10年、1957年に沖縄でも新民法が施行され、やっと沖縄の女性たちにも男性と同等の権利が与えられることとなった。

 

一生独身でもいい、とにかく女は経済的に独立できなければいけない
もともと教員になりたかった千原は、視学(地方の教育行政官)であった父から何度も「絶対ヤマトンチュー(本土の人間)に使われるような職についてはいかんよ」と言い聞かせられた。父は仕事柄、ヤマトから不出来な視学が赴任してきては「琉球人」と蔑まれる経験をしていた。そのヤマトに対する姿勢と同時に、父には女の自立という考えがあった。医者になりたかった父は家庭の経済事情で諦めざるをえなかった。ゆえに、一生独身でもいい、とにかく女は経済的に独立できなければいけない、と教員になりたかった千原に医者を勧める。「学校の先生はよした方がいい。ヤマトンチューに頭を抑えられて小さくなって暮らし、しかも結婚でもしたら首になってしまう。一生の仕事じゃない。医者になることを考えてみなさい。」、「幾何、代数、物理、化学、生物に専念しろ。図画、裁縫なんかほったらかせ」とも言った。おかげで千原は理科系の成績が飛びぬけて優秀だった。東京女子医専(現東京女子医大)123人の入学者のうち4年後の卒業生70余人中、国家試験の合格者は15人、千原もそのうちの一人となった。その後も東京駿河台の杏雲堂病院に勤務し、細菌学、呼吸器科、小児科などの研究を積み、原宿で開業していた医師の夫と結婚、1928年に那覇に戻って開業することとなる。帰郷後の千原は、皮膚病の患者が多く、何より子どもの病気が多いことに気づく。本来病気にならないものでもそうなるのは、栄養状態が悪いことに起因していた。
その後、戦争を生き延び、収容所で医師の夫と、看護学を習得した娘と3名で傷病者の治療にあたる。米人医師とラテン語で会話し、破傷風の血清を求めたりもした。
そんな中、米軍情報局長による思想調査のような面談をうける。あなたは親米か、終戦後、米施政下で沖縄は良くなったのではないか、との問いに対し千原は、「親米だが近頃どうも変だ」とし、「伝染病がなくなったこと、福祉事業が発達したこと、子どもの栄養状態が平等になったことは私の仕事上もありがたい。しかし、人権の問題をみるとき、いつ自分の身に降りかかるかわからないとの不安は禁じえない」と述べている。当時、米兵が子どもたちを驚かそうとしてジープで蛇行運転を繰り返し、2人の子どもを殺したのにもかかわらず、無罪となった事件があった。米軍施政に一定の評価はしつつも、軍政の正当化を明快に拒否する。自立を目指して学び、自信に裏打ちされた千原の抗する姿勢が見出せる。

 

中絶 ─ 医師として、人として
戦前、千原が沖縄で初めて開業したことで、「女子どもが開業するそうだが、夜、医者は辻(歓楽街=引用者)に行くから好都合だ」と揶揄する男性医師もいた。その後、千原は小学校の校医や女子師範、一高女や二高女などで衛生学を教えながらも、診療や往診を断ることなく、毎夜、当番医をし、後に「誇りに思っている」と語っている。
かつて千原は先輩の産婦人科医から「決して堕胎に手を貸してはならない」と警告されていた。小児科が専門の自分が関わる機会も無いものと思っていたが様々なケースにであうこととなる。沖縄は施政権返還の1972年に「優生保護法」が施行されるまで中絶は非合法だった。「子持ちの未亡人が、涙を拭いて兵隊に春を売るのを、誰も非難する資格はなかった。」千原は人としての判断と医師としての行為の間でせめぎあいながらも決断を下した。「『夫から結核が感染している。妊娠中だが中絶を可とす。』といった診断書を書いて、どこでもよいから産婦人科に持っていくように申し渡した。(中略)もし私のしたことが警察に知れることがあったら、堂々と弁明する覚悟はしていた。平和の時代ならいざ知らず、死ぬに死ねない女達の生活を世話してくれる機関もない戦争直後のこと(中略)それでも、あの女達を助けて、ああよいことをしたなどと、うぬぼれることは、僭越であり、傲慢だと自分をいましめている。法は犯しているからである。」
医師として困難を背負っている女性たちと接してきた千原は、小さきものたちの側に軸足を置き、大きな力には毅然とした態度で対峙した。千原のしなやかな強靭さで静かに抗する姿には「男と同等の権利」の先にある、人としての自立と自律の意味を考えさせられる。

●おやかわ ゆうこ

【引用・参考資料】
『沖縄の母親たち その生活の記録』「女医の眼」(執筆 千原繁子、92-118頁)日本教職員組合・沖縄教職員会共編、合同出版発行、1968年
『カルテの余白』、「妊娠中絶」(217-222頁)、千原繁子著、若夏社発行、1978年
『なは・女のあしあと 那覇女性史(戦後編)』那覇市総務部女性室編集、琉球新報社発行、2001年
『沖縄県史 各論編 第八巻 女性史』、「第七部 米軍統治とヤマト化のはざまで」「第一章 戦後沖縄の女性と政治 ―占領初期から民法問題まで―」(執筆 若林千代、443-456頁)、沖縄県教育庁文化財課史料編集班編集、沖縄県教育委員会発行、2016年