2022年は沖縄「本土復帰」50年とし、官民一体でむやみに祝祭ムードを漂わせていた。国と県の共催により執り行われた「沖縄復帰50周年記念式典」は、どこか外見も中身も空虚で、ことばだけが上滑りする催しだった。
朝の連続テレビ小説「ちむどんどん」は、不器用で明るく、逆境にも前向きに取り組む沖縄出身の少女、比嘉暢子(ひがのぶこ)の成長譚が描かれた。暢子が生まれ育った、50年代から70年代の沖縄は、米国民政府による「土地収用令」(1953年)により強権的な土地接収が行われ、抗う民衆を米軍は銃剣で脅し強打し締め出して、ブルドーザーで住居をなぎ倒した(伊江島真謝、真和志村、宜野湾村伊佐浜での土地闘争)。小学校に米軍戦闘機が墜落し、児童を含む近隣住民17名の死者、200名を超える負傷者を出した(1959年)。その後も、嘉手納基地でのB52米軍戦略爆撃機の墜落事故(1969年)、飲酒運転で主婦を轢き殺した米軍人は軍法会議で無罪判決が出された(1970年)。貧しい島を戦勝国軍隊が統治するという苛虐性を嫌というほど見せつけられた。それらに抗し、民衆は公道の米軍憲兵の車、米軍トラック、米人車両と米軍人車両だけをターゲットに、それらの車両から米人を引きずり下ろして次々と火を放った。交番への投石、米軍基地へのなだれ込みなど、数千の群衆が起こした「暴動」はしかし、一人の死者も出さなかった。米軍統治の怒りに震えた民衆の抵抗のあり方としていまなお沖縄で語り継がれる「コザ暴動」(1970年)もまた、暢子のドラマで描かれることはなかった。
米軍や日本政府による沖縄の民衆に対する人権蹂躙は枚挙に暇がなく、戦後約80年を経ても、「本土復帰」から半世紀が過ぎようとも、現在進行形で起き続けている。メディアで表象される画一的な沖縄像、沖縄の女性像が描かれれば描かれるほど、マジョリティ側が欲望するイメージと実態との乖離が浮かび上がってくる。沖縄出身女性たちの「抗する」あり方から「実態」を考えたい。
忌み嫌われる故郷
1932年、『婦人公論』6月号に作家、久志富佐子(くし ふさこ)による「滅びゆく琉球女の手記」と題する小説が掲載された。物語は琉球を離れ「琉球人」であることをひた隠しにし、事業に成功した叔父の様子が姪によって語られる。叔父は月に一度、姪に金を預け、困窮する故郷の実家に送金を頼む。叔父はかつて困窮する実家を訪ねた折、去り際に「僕の籍はね、×県へ移してありますから、実は誰も此方の者だってこと知らないのです。立派なところと取引きをしてゐるし、店には大学出なんかも沢山つかってゐるので琉球人だなんて知られると万事、都合が悪いのでね。家内にも実は、別府へ行くと云つて出て来たやうなわけですから、そのおつもりで……」とのことばを残す。かつて財を成していた叔父の実家は没落し、耄碌した叔父の祖母、叔父の父亡きあと、父のかつての妾は、肺病を患う夫を抱え、幼子と祖母をみていた。女が担おうにも家計には限界があり、見かねた叔父は仕送りをするが、上述のとおり、叔父にとって琉球と直接的に関わることは都合が悪く、姪が代わって仕送りをしている。叔父は実家の境遇に心を痛めるでもなく、悲惨な光景にむしろうんざりし、出身を知られまいとふるまう。異郷の土地で立身出世した親戚を誇らしく、親しくしたいと願った人々の思いは脆くも崩れ去る。
姪は叔父に対する虚しさと悲しさと、ぶつけようのない憤りを抱え自身の境遇を思い至る。そして、最後に「つづく」と記されたこの作品の連載を読むことは叶わなかった。
抗する「釋明文」
連載の続きが断ぜられたこの作品がいまなお語り継がれる理由は、作品の続きに代わって掲載された「「滅びゆく琉球女の手記」についての釋明文」の秀逸さからにほかならない。
久志は冒頭、沖縄県学生会会長らから、故郷のことを洗いざらい書き立てられ、甚だ迷惑を被っているから『婦人公論』上で謝罪せよとお叱りを受けたことを記し、しかし、嘘を述べた覚えも、「沖縄縣民全部が、出生すると、あの人物のやうになります。と書いた覚えも」ないから、「どうもお気に召すような謝罪の言葉がみつからないのを、残念に存じます。」と述べている。そして、学生会長らが「アイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑する」との反論に、「今の時代に、アイヌ人種だの、朝鮮人だの、大和民族だのと、態々(わざわざ)階段を築いて、その何番目かの上位に陣どつて、優越を感じようとする御意見には、如何しても、私は同感する事が出来ません。」と続ける。
さらに、「代表の方々は、我々を差別待遇して侮辱するものだといきまいて居られたが、その語はそつくりその儘(まま)、アイヌや朝鮮の方々に人種的差別をつけるやうなものではないかと思はれます。」、「─人間としての価値と、本質的には、何らの差別も無い、お互ひに東洋人だと信じて居ります。」と記している。
加えて、学生会長らが久志の作品が「就職難や結婚問題にも影響する」と言及したことに対し、「むしろ、就職難の邪魔をするものは、その卑屈な態度ではないでせうか。」、「妾(わたし)みたいな無教養な女の魂の訴へを、必死になってもみ潰さうとなさるよりも、正々堂々と、そんな事位で差別待遇をつける資本家の方へでもぶつかっていらしたらどんなものでせう。」と反論し、「妾(わたし)のやうな無教養な女が、一人前の口を利いたりして、さぞかし心外でございませうけれど上に立つ方達の御都合次第で、我々迄うまく丸め込まれて引張り廻されたんでは浮ばれません。」と、男性たちの不快感に対し最後まで抗いの手を緩めない。
以後、久志は断筆し、40年後の1973年に、沖縄で刊行されていた月刊誌『青い海』のインタビューに答え、当時を振り返っている。当初は『片隅の悲哀』という題が、編集部によって題名が変更されていたことを出版されて知ったこと、病弱な夫と二人の子どもを抱え、困窮していたことから「いわば賞金稼ぎ」で投稿したものであったことなどが語られている。「釋明文」について、『青い海』編集部の「今でも立派に通用する」との問いかけには、若かりし頃の自身の勢いに面映ゆい気持ちを抱きつつも「学生会の方たちの腰抜けぶりにハラがたってきて、一気に書いた」と答えている。
抗することが穿つもの
久志は「釋明文」で被差別者集団の男性が、別のマイノリティ集団を差別していることに無自覚であることの欺瞞性を穿つ。この作品のおよそ30年前、1903年、大坂での万国勧業博覧会、興行「学術人類館」で琉球人女性が「陳列」された。当時、沖縄出身の言論人、太田朝敷(おおたちょうふ)は『琉球新報』紙上で「─特に台湾の生蕃北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり我に対するの侮辱豈これより大なるものあらんや」、「─生蕃や北海道のアイヌと同列に下等動物同様に見世物として陳列せられ─」と記し、自身が被差別者集団側であるにも拘わらず、憚ることなく剥き出しの差別意識を露呈させている。沖縄出身の識者男性らの論理構造には、かつて「王国」を築き、文化や芸術など高度な文化性を持った民族としての意識から醸成されるプライド、それらから生じる劣等な沖縄イメージへの反発とともに、帝国日本の「臣民」、「国民」になることへの盲目的な憧憬という、転倒した、救い難い矛盾が内在する。すなわち、久志の「釋明文」が照射したのは被差別者集団内部におけるジェンダーと階級、民族差別の捻じれた諸相である。
マジョリティによって表象、消費される沖縄の女性像は、沖縄内部のジェンダー・バイアスによって補完、強化され実態から乖離していく。久志の「釋明文」から90年、変わらぬ偏見や差別の実態が覆い隠されぬよう、抗して穿つ姿勢は今こそ求められている。
*戦後沖縄の女性史を研究している親川裕子さんに、4回シリーズで寄稿いただきます。