おいしそうなこのメニューを出しているのは大阪市立西淡路小学校にある「朝ごはんやさん」。食べにくるのはこの学校の生徒たちである。地域のボランティアのおばちゃんたちが運営するこのお店は、月、水、金の週3回、毎朝7時30分から8時30分、学校の家庭科室で開いている。 2016年の厚労省の調査では、経済的に厳しい家庭で育つ子ども(17歳以下)の割合は13.9%、2018年の教育課程研究センターの「全国学力・学習調査」(6年生)の結果では、15%以上の子どもたちは毎日朝食を食べる習慣がないことが分かった。その理由の一つに「朝食が用意されていない」ことが別の調査から浮かびあがる。また、学力や体力と朝食摂取との間に相関関係があることもその他の調査で示されている。
そうだ、朝ごはんを出そう!
朝食の重要さが認められる一方で、朝食をとることができない子どもたちがいる。このことに心を痛め、私たちに何ができるのか、表西弘子さんは考えた。「保護者の責任だ」と言い放つのは簡単だが、そう言うだけで子どもたちの状況がよくなるわけではない。朝食をとることで少しでも子どもたちを守ることができるのでは。2016年、そう思案していた表西さんに飛び込んできたのは、地域にある2つの小学校の統廃合計画のニュースであった。廃校になる校舎で「朝ごはんやさん」を開けないだろうか・・・しかし、朝の忙しい時間に、いくら近くにあるとはいえ、そこまで子どもたちが朝ごはんを食べにくるというのは現実的ではなかった。軽四に朝ごはんを積み、校門のそばで「朝ごはんや」を開くことも考えたが、衛生面や天候の問題が障壁となった。そんな時、統合後に残る西淡路小学校の校長先生(当時)から学校の家庭科室を使ってはどうですか、と提案をうけた。それが今の「朝ごはんやさん」の始まりである。
この提案が事業を成功に導く大きな鍵になったと表西さんは振り返る。朝ごはんを学校内で食べることは、子どもたちにとっては「すご~く便利」で、保護者にとっては「安全・安心」の約束である。
校区にある被差別部落の日之出地区を中心に住民の生活、福祉、教育そして反差別と人権のための活動を半世紀続けてきた表西さんにとって、この計画はけっして簡単ではないが、まったく不可能なことではなかった。運動で築いてきた実績と知恵、そして最も大事な人間関係・人のネットワークという財産があったからこそできた。1食50円の朝ごはんは、地域活動協議会からの補助金がなければ成り立たない。加えて、学校による場所の無償提供、表西さんを含む19人(2023年3月現在)のボランティアスタッフ、地域の組織や住民の理解と支援、そして朝ごはんを食べにくる子どもたち。全員がこの取り組みを支えている。
朝ごはんやさんの一日
「朝ごはんやさん」の朝は午前6時から始まる。ボランティアスタッフ(毎回5人程でローテーションを組んでいる)は調理に忙しい。7時30分には家庭科室の前でランドセル姿の子どもたちが列を作って待っている。「入ってええですかぁ?」「はい、どうぞ」、開店したら、子どもたちは手を洗い、真ん中のテーブルに並ぶ朝ごはんのトレーをとって自由な席に。「うま!」「おいしい!」笑顔がはじける。「ごちそうさま!」「いってらっしゃい!」、おばちゃんたちに送られて子どもたちは教室へ向かう。その後、片付けや掃除をして、家庭科の教室を授業のために明け渡す。
表西さんは、6年間、毎日のメニューを考え、食材の買い出しにも行っている。近くの商店やスーパーで翌日の食材を買い込んで、家庭科室まで運んでおく。77歳とは思えない体力だ。2016年には20人ほどの子どもで始まった「朝ごはんやさん」も徐々に利用者が増え、今では70人ほどになった。当月のメニューの一部をカラー写真で載せた翌月の利用申込書に、保護者は子どもの名前と学年学級、そして利用する日に〇をつけ、回数分の金額を子どもに持たせる。申込書には「朝ごはんやさん」の近況を知らせるお知らせ欄もある。
食べたい子は誰でもおいで~
朝ごはんやさん」は朝食をとることのできない子どもが来る場所に限定はしていない。「食べたい子は誰でもおいで~」、がモットーである。子どもたちに「ここに来て何が楽しい?」と聞いたら、多くの子が「みんなと一緒に食べれること」「友だちと食べれること」と答えるそうだ。家族で朝の食卓を囲む風景は懐かしいものになり、子どもたちの多くは一人で食べる(孤食)という現代の世相を表しているのかもしれない。誰でも来ることができるように、つらい思いをする子がでないように、学校とも連携して配慮しながら「朝ごはんやさん」を開いている。 「朝ごはんやさん」を6年以上切り盛りしてきた表西弘子さんは、若い頃に大阪に出てきて、結婚をきっかけに日之出地区に住むようになった。日之出地区は戦前から水平社運動への参加など、部落差別に立ち上がった地区であり、戦後も地区ぐるみで貧困や差別との闘いが行われてきた。表西さんが大阪に来た頃は同和対策特別措置法が施行された時期で、部落解放運動はあちこちで活発に進められていた。そして表西さんは解放運動に関わるようになった。夫は運動には関わらず、熱心な妻の姿を冷ややかに見ていた。一家の稼ぎ手でもあった表西さんは、昼間は会社勤めをし、帰ってきたら子どもたちにご飯を食べさせ、夜遅くまで会議や集会に出ていく。地区に住む働く女性の問題、保育の問題、住民の貧困問題、取り組むべきことは山ほどあった。妻の活動に不満をもっている夫。集会から帰ったらお膳がひっくり返っていた、夜遅く帰ったら中から鍵が掛けられ、家に入れない、いろんなことがあった。それでも表西さんは仕事、家事、子育て、そして活動と、どれも緩めることなく続けた。今も、市・区の福祉や教育などに関するいくつもの協議会の役員を務め、解放運動にも関わっている。夫は30年ほど前に他界したが、「結婚して日之出地区の活動に関わるきっかけをくれたことには感謝している」という。「私ね、解放運動や地域の活動に関わってなかったら、きっと人より前に出ることばかり考えるイヤな人間になってたと思うよ。地域で活動することで、人のことを考え、人のために働くことができるようになった」、表西さんはそう自分を語る。 「食べたい子は誰でもおいで~」がモットーの「朝ごはんやさん」。もし、朝ごはんを食べることができない子どもだけに限定したら、「あそこに行ってる子は問題のある子」とレッテルが貼られる。それはあかんでしょ、表西さんは言う。子どもたちを本気で守ろうとする人がここにいる。