不可視化に抗するために ─100年前の部落女性は何を伝えようとしたか③

宮前 千雅子
関西大学 人権問題研究室 委嘱研究員

 

100年前の国際女性デー
 3月8日は国際女性デーである。20世紀初頭に起源を発するこの日は女性の権利進展を推し進めるための日であり、日本でもここ数年、ミモザの花の黄色をシンボルカラーとして各地でイベントが組まれている。
いまから100年前の日本においても、労働運動や参政権運動に立ちあがった女性たちを中心に、この日を記念した講演会開催などが企画された。これまで2回にわたって連載してきた部落女性たちも、婦人水平社を創立するなかで国際女性デーを記念した取り組みをおこなおうとしている。
 たとえば1925年5月1日に開かれた、福岡県婦人水平社の創立大会の議題のひとつに「国際無産婦人デーに関する件」が取り上げられた。その様子を報道する記事によれば、彼女らは「三月九日」を「最も忘れることのできない尊むべき日」として賞賛する。それは女性たちが起こした「一大示威運動」(この記事ではロシア革命を推進した女性たちの運動)が新たな国家建設を導いたからだとし、「偉大な」「婦人の力」を記念する日に「無産婦人」として意義ある仕事をしようと訴えかけたのであった(『水平月報』第11号、1925年7月1日、ほか)。
 100年前の部落女性たちの声を届けてきた連載の最終回、今回は彼女らが設立した婦人水平社の具体的な取り組みから紹介したい。なお資料の引用に際しては、適宜読点を加えたり、現代的仮名遣いに改めるなどしている。また「…」は省略を意味する。

 

福岡での労働争議
 1923年に設立された婦人水平社の運動の高揚期は翌年の1924年から1926年で、おもな舞台は地方であった。これまで関東(埼玉、群馬)や大阪、福岡で婦人水平社が設立されたことがわかっている。
先に紹介した福岡の女性たちは、1925年12月、地元の原田製綿所で労働争議を闘った。その製綿所で働く部落女性は、工場での労働環境を次のように語る。

…私は義務教育もろくろくにうけずに、ここの会社の女工として通っています。…一家の生計をたてるため…朝は7時から夜は8時まで働き、その上に機械の掃除は時間の外にやらせられるので、家に着くころは早くも9時を過ぎます。…工場の内は綿屑のためにまるで真白です。この中で働く私達は、1日中お日様を拝むこともできません…過激な13時間に余る労働の代価はわずかに50銭足らずです。…過度の労役に落ちくぼんだ眼、青ざめたやつれた顔、粗食のための栄養不良、そして極度の睡眠不足のために遂に不治の病患におかされる…苦痛と悲憤の怨嗟の中に無残にも短い一生を終る…自らの生計に対する呪詛、無言の諦め、これよりほかには仕方ないのです。…
(『水平月報』第17号、1926年1月1日)

 1916年に施行された工場法では15歳未満の者と女性の労働時間は、1日あたり12時間を超えてはならないとされている。となるとこの製綿所は法令違反となりそうだが、工場法には長期間の適用猶予があった。ただ大正期の女性労働者の労働環境や生活実態を記録した『女工哀史』でも紡績工場での労働は11時間や12時間が多数を占めると記されており、上の女性が語る1日13時間労働は過酷な労働環境だと指摘することができる。
 賃金も若干時期はずれるが1922年1月の「綿糸紡績女工」の日給は全国平均で1円16銭、福岡の平均で97銭となっており(「賃金表」)、原田製綿所の賃金の低さが際立っている。そしてその製綿所で働く女工200人のうち、その半数近くが部落女性であった。
 このような状況に対して、婦人水平社を中心とした団体が、女工の保護者に働きかけた。というのも当時の労働争議において、女工を結集しても会社側が保護者工作を図り、争議自体がなし崩しにされてしまうことがあったからだという(新藤東洋男『部落解放運動の史的展開』)。そして「残業させぬこと」「機械の掃除を時間中にすること」などをはじめとする13か条の嘆願書を作成して会社に提出した。くわえて「原田製綿所男女工大会」が開催されると、労働者側の団結の強さを前にした会社はその要求のほとんどを認めるに至る。すなわち争議は労働者の勝利に帰したのである。福岡での婦人水平社の運動は、冒頭で紹介した国際的な射程をもつと同時に部落女性の生活実態に根差した活動を展開していたことがわかる。

 

婦人水平社との出会い
 1924年9月、埼玉の製糸工場で講演会が開かれた。その工場で部落出身女工に対する「差別言辞」があったことからその取締りを工場側に要求するいっぽう、婦人水平社もかかわって労働者の部落問題理解を深めるために開催されたのであった。この活動のなかで水平社に出会い、運動に参画するようになった女性は次のように語っている。

…しかし、此の間の水平社の講演会がありましてから、私達姉妹は力強くなりました。
 水平社、水平社、なんという強い響きを与える言葉でしょう。私達はほんとうに蘇りました。再生の思いをしています。太陽の光りは、いまぞ私達を照らしているように思われます。秋草花はほんとうに美しく私達を迎えているように思われます。
 私達は、労働の苦痛のうちにも楽しいエタの子の使命を果たす準備として、一生懸命に力であるところの団結の促進を計っています。やがて私達は娘子軍としての戦闘舞台に起つ時が参りましょう。…
(高橋みすえ「悲しみの中から娘子軍への努めに」『自由』第1巻第4号、1924年11月)

 この女性は前回のIMADR通信No.212号でも引用した、学校での教員や友人からの被差別体験を綴った女性である。しかし上に紹介した言葉は、その言葉とはまったく違った響きをもつ。彼女は水平社宣言の「エタであることを誇り得る時がきたのだ」に象徴される思想に出会うなかで部落民としての主体性を獲得し、差別によって奪われた力を取り戻して自己変革を遂げている。まさしくエンパワメントそのものである。
 また彼女たちは婦人水平社に参画するなかで、他地域の部落女性と出会い、労働運動に集う女性たちに出会い、そして冒頭に紹介したように世界の女性運動の片鱗にも触れ、自らの世界を大きく広げていった。

 

100年を迎えて
 だが彼女らの運動は長くは続かず、1928年には婦人水平社の活動は終焉を迎える。そもそも水平社は部落女性の課題を理解できていなかったし、彼女ら自身も前回に指摘したとおり家族のなかでの抑圧を明確化できていなかった。さらに思想弾圧で地域のリーダーが奪われたことも、彼女らの運動を衰退させた。1930年代半ば以降になると水平社は戦争協力に転じ、部落女性もまた地域の国防婦人会などをつうじて戦争に加担していった。それは日本の植民地主義と侵略の一翼を担った歴史であり、水平社や部落女性の歴史を遡る際、決して目をそらせてはいけない事実である。
 しかし、1923年から1928年という短い期間ではあったが、部落女性は婦人水平社をとおしてそれまで不可視の存在とされてきた自らの存在を社会に強く印象づけたといえる。それに大きな役割を果たしたのが、「二重三重の差別と圧迫」や「二重三重の鉄鎖」という部落女性の経験から編み出された言葉であった。その言葉は戦争を終えても引き継がれ、部落解放運動のなかで女性たちを婦人部へ、そして女性部へと結集させた。男性のように戦前から戦後へと運動家として活動し続ける部落女性はいなかったが、婦人水平社に集った女性たちからの大切なバトンとして受け継がれたのである。
 そして、今年、2023年が婦人水平社設立から100年という節目の年にあたる。今なお、部落差別や部落女性を不可視化しようとする動きは根強い。だからこそ、それに抗した100年前の部落女性の声に、今一度、耳を澄ませてみよう。彼女らは何を伝えようとしたのか、そこから何を学ぶべきなのか。問われているのは、聞き取る側のわたしたちである。

 
宮前千雅子さんによる連載は今回で終了です。3回にわたって示唆に富む記事をご寄稿いただきました。ありがとうございました。