飽きることなく20年間観続けてきた映画がある。
30年前に公開されたドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』(佐藤真監督)である。この映画は、新潟県阿賀野川の中・上流域に暮らす3組の老夫婦の生活を丁寧に描いた作品だ。本格的な映画作りはほぼ初めてとなる10代後半~30代のスタッフ7名が、阿賀野川のほとりに民家を借りて、生活をともにしながら撮影・編集した。映画の製作費とスタッフの生活費は、全国1,500人余りの市民からの3,000万円を超えるカンパで賄った。3年を経て完成し、1992年公開。当時ドキュメンタリーとしては異例のロングランヒットを記録、国外の映画祭でも高く評価された。30年を経た今も、全国各地でさまざまな規模で上映会が開かれ、新たにこの映画に出会う人々を生み出し続けている。民によって求められ、民によって愛され続けてきた稀有な映画なのである。
映画に登場する3組の老夫婦は、田んぼや畑を耕しながらサケ漁や船大工など川とともにある仕事で生活を営んできた。そして川は肥沃な土壌と燃料となる流木を運び、川魚は貴重なタンパク源を提供した。これら阿賀野川の恵みとともに長年暮らしてきた彼らは、川の上流で操業していた化学工場が垂れ流した工場排水によって引き起こされた新潟水俣病(※)の患者でもあった。
1984年、佐藤監督は熊本県の水俣病を記録した映画上映活動のために阿賀野川流域を訪れた。その折に地元の大工であり、中流域の水俣病患者たちの支援をしていた旗野秀人さんは、監督に映画制作を持ちかけた。旗野さんは「根っこの部分では水俣病を伝えたいということはあったけれど、それよりも何よりも川筋の人達のとっても魅力的な暮らし、それをそっくりそのまま伝えて、映像に残してもらいたいという気持ちがあった」と語る。
私はというと、2002年の夏、大学の授業でこの映画を観て、「餅屋のジィちゃん」と慕われた加藤作二さんの餅つきシーンに魅せられ、というか、その餅を食べてみたいと思ったのだった。その後、幸運にも現地を訪ねる機会を得た。作二さんも妻のキソさんもすでに亡くなってはいたが、旗野さんを通じて、ふたりを看取った娘のキミイさんに私は出会うことができた。キミイさんは、頭痛や手足のしびれなど体の不調を抱えつつも、薪ストーブを真ん中に毎年の干し柿作りも欠かさず、映画と同じ生活を続けていた。私とキミイさんは不思議とすぐに打ち解け、長年連れ添った親友のような関係になった。
映画公開30周年となる今年、『それからどしたいっ!「阿賀に生きる」その後』(佐藤睦監督)という作品が生まれた。「あの世とこの世を結ぶドキュメンタリー映画」と銘打たれている。1995年、新潟水俣病第二次訴訟が和解という結果で終わった後、旗野さんは高齢の患者たちにせめて「冥土の土産」を贈りたいと温泉やカラオケ、旅行などの企画を重ねた。『それからどしたいっ!』には、笑顔の患者たちばかりが登場する。キミイさんと私は北海道でご馳走を食べたり、歌うことが大好きだった患者の渡辺参治さんが自慢の歌で宴会を盛り上げたりしている。『阿賀に生きる』と合わせて観れば、人が豊かに生きて死ぬとはいかなることか、そんな問いを誰もがきっと考えたくなるだろう。
監督:佐藤真(1992) 115分
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※昭和電工鹿瀬工場からの排水に含まれていたメチル水銀が川魚に濃縮、それらを人間が大量に摂取することで発症した公害病である。日本の高度経済成長期に引き起こされた四大公害の1つであり、1956年に公式確認された熊本の水俣病に続いて、新潟では1965年に顕在化した。