サビーネ・シュワイツァー著『「ちゃんと働かせている」―今日のオーストリア領土内でナチス時代に設置された分散した「ジプシー収容所」1938年-1945年』と題する新刊をオーストリア・ロマ文化協会が昨年秋に発行した。
ルードウィク・ラーハー編著『私たちはこの世に存在すべきではなかった』(凱風社、2009年)に5カ所の「ジプシー収容所」が登場する。①サルツブルク州マックスグラン(1940年10月開設~1943年4月閉鎖)/②ブルゲンラント州ラッケンバッハ(1940年11月23日開設~1945年3月末閉鎖)/③オーバーエスターライヒ州ワイヤー(1941年1月19日開設~同年10月29日閉鎖)/④ウィーン市ワンコ・クシュテッテン(開設も閉鎖も1941年)/⑤ティロール州ホップフガルテン(1942年6月開設~1943年4月閉鎖)。
新刊は「ジプシー収容所」の概念を4類型に分類するが、数日間のみ存在した収容施設も含めれば該当地は47カ所も確認された。
そのような施設設立の前提をなしたのが「ジプシーと混血ジプシー」の移動を禁じた1939年10月17日発布の「収監通達」。ドイツではその直後から各都市に「ジプシー収容所」が設けられたが、「オストマルク」の場合は帝国公安本局長官ラインハルト・ハイドリッヒが「オストマルクのジプシー弊害撲滅令」を発令した1940年10月31日以降からである。
1938年当時オーストリア在住の1万1千人のロマの半数以上が、1942年1月初旬までに強制収容所やユダヤ人ゲットーへ連れ去られ、もはや生存していなかった。
労働収容所はとりわけ道路建設工事関連で目立ち、今までさほど注目されなかった帝国アウトバーン建設工事での強制労働に新刊はとりわけ着目する。ドイツ南部のミュンヘンからサルツブルク経由で「オストマルク」南部、ケルンテン大管区のクラーゲンフルトまでの帝国アウトバーン建設工事が計画された。オーストリアで最多のロマが暮らした旧ブルゲンランド州南部は1938年10月15日からシュタイアマルク大管区に編入されたが、ミュンヘン⇔クラーゲンフルト間の道路建設工事は1940年当時シュタイアマルク大管区西部まで進捗していた。そこで同年10月から604人のブルゲンラント・ロマが道路建設工事に投入された。
強制労働投入のロマ収容所は鉄条網で囲まれ監視員もいたが、逃亡を試みる者はいた。労働収容所から4人のロマが逃亡、2人の警察官が追跡・発見、警告発砲後3人は立ち止まり、逃げ延びようとしたロムは右肩を撃ち抜かれて病院に収容と、シュタイアマルク西部ムーラウの地方紙が1941年4月に報じた。
サルツブルク州レオポルド・モース(マックスグランの別名)について、400人ほどの被収容者は帝国アウトバーン工事とグラーン川改修工事、また37人はレニ・リーフェンシュタール監督の映画『低地』(1954年初演)のエキストラとして強制労働に投入された。それら強制労働の報酬として支払われた賃金は収容所運営費に充当されたので、自らの収容施設をロマたちは自分たちの労働で維持したことになる。
ブルゲンラント州ラッケンバッハについて、1941年1月9日から翌年2月4日の日誌が残っている。それによれば1941年9月5日から10月29日にかけて毎日200人ほどの男女被収容者が10人の監視員に伴われて帝国アウトバーン建設工事現場に派遣された。その直後の11月4日と7日、それぞれ1,000人のロマがラッケンバッハから電車でポーランド・ウッジのユダヤ人ゲットー内に急造した「ジプシー収容所」へ移送され、翌年1月初旬にその全員が絶滅収容所ヘルムノで毒ガス殺された。
敗戦後もラッケンバッハ「ジプシー拘留収容所」は長いこと強制収容所と認定されず、元被収容者はナチ被害者として認められなかったため補償も受けられなかった。その事実はナチス時代の民族差別思想とロマ民族に対する否定的ステレオタイプが克服されず第二次大戦後も生き長らえたことを裏づけている。
●かねこ まーてぃん