沖縄に、ひとりの少女がやってきた。北国・能登半島で生まれ育った、坂本菜の花さん、15歳。彼女は、70年あまり前の戦争で学校に通えなかったお年寄りも通うフリースクールでの3年間で、沖縄では今なお戦争が続いていることを肌で感じとっていく。次々に起こる基地から派生する事件や事故。それとは対照的に流れる学校での穏やかな時間。こうした日々を、彼女は故郷の新聞コラム「菜の花の沖縄日記」(北陸中日新聞)に書き続けた。少女がみた沖縄の素顔とは
─(「ちむぐりさ」HPより)
「ちむぐりさ(肝苦さ)」に託した想い
映画は、主人公・菜の花さんのモノローグで始まる-「沖縄の言葉、ウチナーグチには『悲しい』という言葉はない。それに近い言葉は“ちむぐりさ(肝苦さ)”。誰かの心の痛みを自分の悲しみとして一緒に胸を痛めること。それがウチナーンチュの心、ちむぐりさ」
いま、私たちはコロナ禍を生きている。未知の感染症が流行してから私たちは人と会えないことが、こんなにも辛いことなのだと痛感させられると同時に、会えなくても「誰かとつながっている」。そう思えることで元気になれることも知った。そうした人に備わっている“共感力”ともいうべき力で、戦後70年あまりが経過する今なお、暮らしや命が危険に晒される基地の島・沖縄の現状を少しでも前に進めたい、その一心で作ったのが映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』(2020年公開)だ。
くしくも、このコロナ禍が米軍基地の本質の一端を浮かび上がらせている。昨年末、沖縄では米軍基地で新型コロナウイルスの大規模なクラスターが発生し、県民にも感染が広がった。年明け1月8日時点で、一日の新規感染者は1700人を超えた。フェンスの向こうで何が起きているのか、私たちは知る事が出来ない。軍事上の機密として全てがブラックボックスの中にあり、どこまで感染が広がるのか、県民は不安の中にいる。玉城知事は会見で「米軍基地から染み出した」と考えざるを得ないと指摘した。
基地から染み出しているのはウイルスだけではない。人体に有害であるとして国際条約で使用や製造が禁止される化学物質・PFAS(有機フッ素化合物)も染み出し、県民45万人に供給される水道水、命の水をも汚染している。
沖縄に基地が集中する状況は「現代的な人種差別」だとして、2010年、国連人種差別撤廃委員会は、日本政府に対し、沖縄の人びとと幅広い協議を行うよう勧告している。
ちむぐりさ…、私はその言葉に願いを託した。
少女がみた沖縄の素顔
2016年、沖縄県うるま市で米軍属の男により20歳の女性の命が奪われた。多くの県民が悔しさと悲しみを胸に県民大会に参加した。私もその中にいた。息苦しいほどの暑さだった。6万5000人が集まった、あの日。参加者は滴り落ちる汗と涙を拭いながら抗議の声を上げた。1995年の米兵による少女暴行事件以降、幾度となく繰り返されてきた県民大会で発せられた沖縄からの声に耳を貸そうとしない日米両政府に対して、この暑さの中での大会がどう影響するかわからない。それでもと、人びとは整然と結集する。どうすれば人びとの想いを伝えられるのか、私は考えあぐねていた。そんな折、菜の花さんが綴った文章を目にした。
菜の花さんは、故郷の新聞の連載コラム「菜の花の沖縄日記」に事件のことを記していた―「取り返しのつかない悲しいことが、また沖縄に起きてしまいました。本土では今回起こった事件がどう受け止められているのでしょうか。(辺野古への基地建設に対する)抗議活動が大きくなる「恐れ」。最悪なタイミング。使われる言葉一つひとつが私の喉に刺さって抜けません」。
この時、16歳だった菜の花さんが沖縄の痛みを県外の人に伝えたいと懸命に紡いだ言葉に、心を揺さぶられた。すぐに菜の花さんに取材を申し込み、共同作業がスタート。オスプレイが墜落した浜辺へ、米軍ヘリが炎上した牧草地へ─。菜の花さんが行きたいと望む場所に向かった。行く先々で、彼女のまっすぐな瞳を前に地元の人たちが本音を語ってくれた。
取材を重ねていた2017年、子どもたちが遊ぶ保育園の園庭に米軍機から部品が落下。6日後には、体育の授業中に小学校の運動場に重さ8キロもある窓が落下する事故が起き、日常的に子どもの命が危険に晒される沖縄の現状が突き付けられた。
菜の花さんは、コラムをこう締めくくった―「もし東京に、現在の沖縄と同じ在日米軍専用施設の74%があって、このような事件が起こったとしても、同じことを言うのでしょうか。同じ対策を取るのでしょうか。私には『沖縄だから』という潜在的な差別意識が心のどこかにあるように感じます」と。
菜の花さんのまっすぐで素直な問いが、原点に立ち返らせてくれる。命が軽んじられる異常な状況が放置される背景には沖縄への「差別意識」があり、それに対して、声をあげる権利が私たちウチナーンチュにはあるのだと。
映画の恩人
あの人がいなければ、当初テレビ番組として制作した『菜の花の沖縄日記』が映画になることはなかった。映画の恩人は、新たな基地建設のための辺野古埋立ての是非を問う県民投票が行われた日に菜の花さんが出会った地元の海人・仲村圭吾さんだ。条件付きで埋立てを容認している仲村さんは辺野古の浜で話し始めた。
「俺の考えよ、沖縄は植民地なわけよ。反対しても止まらない。だったら条件付きで受け入れる。後輩のために」
彼なりの正論に、静かに耳を傾けていた菜の花さんは号泣する。そして、彼女はかつて自分の故郷・石川県に建設される予定だった米軍基地が住民の反対運動の帰結として沖縄に押し付けられた歴史を思い起こし、懸命に言葉を紡ごうとする…。
聞き終えて、仲村さんは、浜の先に見える島を指さして言った。
「これ以上、工事が進むと島が見えなくなる」
その時、菜の花さんは「意見は違うけど、あの土砂が入れられている海を見る気持ちは同じだと感じた」という。
投票の結果、県民の7割が埋立て反対だった。しかし、日本政府は沖縄の声や願いを踏みにじった。
海人が本音を語った理由
辺野古が基地問題で二分されてから、もう四半世紀。人びとは分断され沈黙するようになった。それなのになぜ仲村さんが本音を語ったのか。後日、本当に菜の花さんとのやりとりを映画に使用していいのか確認するため電話を入れた。受話器を持つ手が震える。長い呼び出し音の後、電話に出た仲村さんの口から語られたのは予想だにしないことだった。「俺、癌なんだ。体調が急変し入院しているから、時間を置いて連絡してほしい」
頭が真っ白になった。
あの時、本音を語った理由を私は勝手に、県民投票の当日だったため想いが吹き出したのだと解釈していた。でも、それだけではなかった。彼は地元の人びとの想いを、痛みを伝えておかなければと切迫した想いに駆られていたのだろう。その真意を確かめることは永遠に出来なくなった。
去年、仲村さんは天国へと旅立った。50代の若さだった。海面がキラキラと輝いた夏の日、私は仲村さんにお礼とお別れを言うために辺野古の浜に向かった。2年半前に見えていた島は、無機質な冷たい光を放つコンクリートブロックでもう見えなくなっていた。
その海を生業の場としてきた仲村さんの悲しみの深度はどれだけ深いものだったのか…。海人としての尊厳を踏みにじられる痛みはどれだけのものだったのか…。
涙がとめどなく溢れた。
その時、浜に吹く風に乗って、「なんで綺麗な海見に来ているのに泣くか?笑って帰れよ」と、泣きじゃくる菜の花さんに掛けた仲村さんのぶっきらぼうだけどあったかい声が響いた気がした。
守られるべき命がある
映画公開後にブロードキャスターのピーター・バラカンさんからいただいた言葉がある。
「この映画を見て頭に浮かんだ言葉は “Okinawan Lives Matter”」
私たちが生きる島には、守られるべき命がある。
その命の鼓動を伝え続けていく。それが、「差別」の芽を摘むために、私にできる唯一のことだと思うから。
ちむぐりさ…と、そっと唱えてみてほしい。
●たいら いずみ
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