映画『私はベルマヤ』ネパール、ダリット女性の声

プーナム・モハティ

サマタ財団 プロジェクトコーディネータ

 

“I am Belmaya”(以下、『私はベルマヤ』)は、ネパールの小さな村に生まれ、多くの苦しみを味わってきたダリット女性ベルマヤの実話だ。このドキュメンタリーは、ダリット女性が村の素朴な少女から、ビデオ撮影を通して自分の生きてきた道を描くことができる自立した女性へと変化していく様子を描いたものであり、家父長制の考え方に導かれるダリット女性の社会規範や価値観に挑んでいる。
交差的な抑圧により、ダリット女性は家族、夫、息子、さらには社会の上位に立つ人(たいていは男性)に大きく依存せざるをえない。ドキュメンタリーは、ベルマヤが経験してきた不平等、不公平、権力の力学の実像を鮮明に描き出している。第一に、ベルマヤは親がいない、貧しい、無学という理由で疎外されてきた。次に、女性であるがゆえに、夫の虐待に苦しめられた。そして、彼女の負けん気の強さ、忍耐力、挑戦が、ネパール社会に根をはるジェンダーとカーストの固定観念を打ち破るのを助けた。ベルマヤは幼少期に多くのことを経験した。父親は結核で亡くなり、一家の稼ぎ手を失った母親は精神的に苦しみ、やがて自らの命を絶った。ベルマヤが幼い時に経験したこれらの困難は、絶望的でネグレクトされた子ども時代につながる。貧しい家庭に生まれたベルマヤは9歳で孤児となった。

奪われたカメラの夢

ダリットは社会から隔離されていて、収入を得るのも難しく、医療にもアクセスできない。ベルマヤは学校に通い始めた頃、男性の教員から「お前の脳みそには牛の糞がついている」と言われ、勉強する意欲を失い、学校に行くのをやめた。このような家庭環境と失望から、彼女は村を出てポカラに行き、「少女の家」で暮らした。ベルマヤは、「家には食べる物はなく本を買うお金もなかったので、兄たちは私をポカラの少女の家に送った」と言っている。この証言は、ネパール農村部におけるダリットの状況を端的に表していた。家が貧しく絶望的な状況にあるため、ダリットの少女や少年は少しでもましな生活のために孤児院に送られることがある。「少女の家」は孤児院だ。そこでベルマヤはスー・カーペンターと出会った。スーは映画監督で、孤児院の少女全員にカメラを配布するという夢のプロジェクトのために、そこを訪れた。スーによると、ベルマヤは孤児院の他の子どもたちとは違い、大胆で勇気のある子どもだった。
生まれて初めてカメラを手にしたベルマヤは、スーに写真の撮り方を教えてもらった。ベルマヤは写真を撮るのを楽しんだ。ファインダーを通して外の世界を見た。写真を撮っている間、自由を感じた。彼女は差別や不平等の苦しみをカメラを通して表現することに自分の居場所を見つけた。ネパール社会では、女性が写真の仕事に就くのは認められていないし、ありえないと思われている。しかし、ベルマヤはより良い生活のために自分の夢を追い始めた。だがそれも束の間、孤児院のオーナーが心変わりをし、ベルマヤの夢を壊した。スーが孤児院を去った後、少女たちは殴られ、カメラを使わせてもらえなかった。この出来事は、階級や地位が重視されるネパール社会の不平等な構造を示している。

ダリット女性にかかる幾重もの抑圧

ベルマヤは悩んだ末、よりましな暮らしができると信じて結婚を選んだ。しかし、結婚後、夫は虐待をするようになった。夫は夜になると酒を飲み、彼女に悪態をついて絡んできた。彼女は、社会的な価値観や規範を考え、やがて良い生活ができるようになるだろうと望みをかけ、夫との関係を断ち切ることができなかった。しかし、男女間の不平等は社会に組み込まれており、権力者を信じ、同じパターンを踏襲することで、不平等や差別は世代を超えて維持されてきた。結婚して1年後、彼女は女児の母親となった。しかし、夫は男の子を期待していたため、「自分の子どもではない」として子どもを認めなかった。さらに夫から、他の男性との間の子どもだと責められた。まさに、男性偏重のネパール社会を示している。
ベルマヤは無邪気な娘の顔を見ながらこの状況に耐えなければならなかった。家父長制社会における女性の無力さを示している。彼女は、「生きていくために、母親として、他の家から家へと掃除や皿洗いをして働いた」と言う。「夫は毎晩、酔っぱらって帰ってきて私を殴り、娘は自分の子ではないと言って私を責めました。とてもつらかった」。あるとき、夫に殺されそうになり、警察に通報して夫が逮捕されたことで、2人の関係はさらに悪化した。彼女は夫に虐待されていると訴え、離婚を求めたが、家父長制の社会構造は彼女の決断を許さず、同じ過ちを繰り返さないという約束で妥協させ、夫のもとに送り返された。
これは、社会制度によって抑圧されている女性が、自分で物事を決めることさえできないことを示している。彼女の決断は、常に社会の男性に有利な権力構造(特に男性)に支配されてきた。裁判を起こした後、夫は変わったが、男性としての態度は変わらなかった。ベルマヤとの会話の中で、彼は家父長的な考え方を示し、「おまえはいつも夜遅くに帰ってきて、私は子どもの世話をしなくてはならなかった。それが喧嘩のもとだった」と言った。ベルマヤは、「もし結婚していなかったら、もっとカメラを知る機会があったのではないかとよく考えたものです」と語っている。暴力的な夫との生活を経験したベルマヤは、癒されることのない傷を抱えていたが、同時に一児の母親として、より良い未来のために娘に教育を与えるようになった。やがて娘のために生きる勇気が湧いてきて、教育の大切さにも気づいた。

再びレンズを通して 生きざまを描く

ベルマヤの写真への夢は、2014年にスー・カーペンターと再会したときに花開いた。その頃、スーは映画監督として活躍しており、特に人身売買の被害者のために活動する「アーシャ・ネパール」の共同設立者でもあった。ベルマヤは、自分の夢を叶えることができる2度目のチャンスを得た。彼女はスーから映画製作を学び始めた。写真を撮ることに情熱をかけていた彼女は、映画監督としての訓練を受けた。夫が娘の面倒を見なかったため、娘を連れてトレーニングを受けにきた。夫と一緒にいながら、シングルマザーとして娘を育てたのは、夫が娘に対して無責任だったからだ。彼女には忍耐力があり、写真やビデオを撮ることに情熱を注いできたので、決してあきらめることはなかった。心を込めて、一生懸命に学んだ。ベルマヤの人生は簡単ではなかった。写真のトレーニングを受けている間は娘と一緒に何時間もフィールドで過ごした。彼女はスーに助けられた。映画製作のあらゆる場面でスーは彼女を支えた。
『私はベルマヤ』はネパール映画祭にノミネートされた。受賞には至らなかったが、小さな村の出身の教育を受けていない女性が、自分の作品の中で生きざまを表現するネパール人女性監督として認められた。彼女は、「私の最大の成果は、貧困と虐待的な結婚という地獄から映画製作という天国にたどり着くことができたことです」と振り返った。ついに彼女は英国アジア映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、他のいくつかの賞にもノミネートされた。そのときの心境を、「英国からネパールに戻るとき、私のように教育を受けず、早くに結婚と出産を強いられ、DVや不平等、差別に苦しむ何万ものネパール人女性のことを考えていた」と語っている。
『私はベルマヤ』は、カースト制度、差別、暴力、不平等などに苦しみながらも、決して夢を諦めなかったダリット女性の生きざまを描いた物語だ。ベルマヤのストーリーは、歌われることのない、伝えられることのない、声なき声のダリット女性たちを勇気づける。ベルマヤの情熱、忍耐、そして弛まぬ努力が彼女の夢を成功に導いた。ベルマヤのサクセスストーリーは、社会の制度や構造に横たわるダリット女性に対するステレオタイプを打ち破る。

(翻訳 IMADR事務局)