ビスカルド 篤子
カトリック大阪教区社会活動センター・シナピス事務局
私が所属するカトリック大阪教区社会活動センター・シナピス(以下、シナピス)は、ローマカトリック教会を運営母体とする社会運動ネットワーク団体だ。そのなかで私は主に外国籍住民からの相談業務を担っている。
海外ルーツの人たちから受ける相談は、労働・医療・結婚離婚・子どもの養育教育など、多岐に及ぶが、時には人身取引被害者を匿ったり、無国籍の子どもたちを保護したり、深刻な内容に直面することもある。そのため私たちは日ごろから専門分野に携わる人の協力を得ながら、一つ一つの悩みに丁寧に対応し、解決してゆけるよう心がけている。
難民との出会い
そんなシナピスの外国人相談窓口に、新たに難民支援デスクとして大きく形を変える転機が訪れた。21世紀の幕が開いた2000年の秋だった。
その日、群馬から大阪に引っ越してきたという夫婦がシナピスを訪ねてきたのだが、色々話すうちに二人がアフガニスタン出身で、少数民族のハザラ人であることがわかった。当時の私はアフガニスタンが多民族国家で、ハザラ民族が歴史的に差別と迫害を受けてきた背景を全く知らず、戦争の国から逃れてきた夫婦の壮絶な人生に聴き入るばかりだった。
それ以来、夫婦は同胞のアフガニスタン人たちを次々にシナピスに連れてくるようになり、わずか一ヶ月足らずで10人近くのアフガニスタン人に出会うこととなった。彼らの全員がハザラ民族の単身の男性で、一様に「難民と認められるよう助けてほしい」と言うのだった。当時の私は日本の難民認定制度もアフガン情勢もよく知らず、そもそもシナピスには人材も足りなかったので、RINKやアムネスティ大阪事務所といった関西の人権団体に応援を頼み、難民支援チームを結成し援助運動を開始した。
難民支援チームではまず難民申請者たちから個別に事情の聴き取りを始めたが、この作業により私たちは当時のアフガニスタンがタリバンというイスラム原理主義集団に全土の95%を実効支配され、特にハザラ人が迫害の標的にされていた事実を知るようになった。私たちが出会ったハザラ人全員が、親、きょうだい、妻など身近な親族を殺害された経験を持つなど、他の出身国者ではありえない異常な国情に、聞き取り作業がなかなか進まなかったのを覚えている。ハザラ民族にとって、もはやアフガニスタンに帰る選択肢はなく、もしも難民不認定処分を受けて本国へ送還されれば、それは死を意味するのも同然なのだった。私たちは、彼らが難民と認定されるか、あるいは人道配慮による在留資格を得られるよう、法務省や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)にも働きかけた。不認定処分を受けた場合には司法に訴えるなどして長期にわたってアフガニスタン難民を支援し続けた。
以来20年間、シナピスは絶え間なく世界各地から保護を求める難民申請者に関わるようになった。残念ながら20年を経てもなお日本政府の難民に対する厳しい姿勢はほとんど変わらず、市民の難民保護に対する理解もなかなか得られないのが現状だ。
そして再び、アフガニスタン
2021年8月、アフガニスタンの首都カブールの空港から離陸する米軍機にしがみついた人びとが落下してゆく衝撃的な映像が繰り返し流れた。米軍撤退直後にタリバンがカブールになだれ込んだのと時を同じくして、国内外のアフガニスタン人たちから「助けてほしい」との声がシナピスに届き始めた。特に現地カブールに取り残された知人たちの声は悲痛だった。「私たち家族を退避させてほしい」「日本の自衛隊機が来るらしい、乗せてください」「女性や少年たちがタリバンに誘拐される」「夜は子どもたちを地下に寝かせ、大人たちは寝ずに通りを見張っている。毎日生きた心地がしない」ある人は「もう無法状態なんだ。このビデオを見て。私が家から撮った」といって、タリバンが道行く人にいきなり大きな石を投げつけて殺害する動画を送るのだった。
一方、20年前にタリバンの迫害から生き延びて現在日本に在住するアフガニスタン人女性たちは鬱々としていた。伝統的な家父長主義のアフガン家庭では女性に発言権がなく、妻や娘たちは無力感に苛まれていた。私はそんな女性たちが心配で何度も電話をかけて思いを聴くようにした。「考えても絶望的になるだけで」と電話の向こうで泣く女性たちに、何か一緒に動ける方法はないか、私は思案した。「たくさんの難民を助けることはできないけれど、あなたの従妹、姉、姪、たった一人なら助けられないかな。」
一人を助けることから出発する
「自分に近い家族一人だけならできるかもしれない。」
これは私自身が行きついた思いだった。「篤子さん、助けてください」と電話の向こうでアフガニスタン人たちが名指しで叫ぶのを聴き「できないです、さようなら」と切ってしまうことができず、かといってなす術はなく、アフガニスタンからの着信音に気が重くなるばかりだった。一方で、この緊迫した事態のなかでシナピスを思い出してくれるアフガニスタンの人びとをいとおしく思い、このつながりを絶やさないようにしたいと強く願った。私は、日本在住のアフガニスタン人女性たちとともに私たちに可能な行いを見出すことにした。そうして行きついた取り組みが、「たった一人の救出から動き出してみる」だった。
アフガニスタン人女性たちは私の提案に前向きになった。さっそく女性たちは勇気を出して各々の夫や父親に「弱い立場の女性たち…叔母を、従妹を、姪を真っ先に退避させたい」と訴えた。日本在住の家族が身元保証人となり、カトリック教会が保護の後押しをする。アフガニスタン人と日本人が協力しあって、小さな家族単位で退避を実現できるよう準備を進めることにした。
家族がどうにかアフガニスタンを自力で脱出して隣国まで退避できたら、シナピスは援助を開始することにした。アフガニスタン国内では銀行が閉鎖され行政がほとんど機能せず、通信も途絶えがちで手の差しのべようがないが、パキスタンやイランなど隣国まで逃ることができたら、日本からの送金や交信が可能になるし、現地NGOにも協力を呼びかけることができるだろう。
10月初旬、ある家族が国境を越えてパキスタンのイスラマバードに辿りついた。また中旬には別の家族がイランのテヘランに入ることができた。私たちは速やかに日本への招聘状や身元保証書を作成し、現地の日本大使館に渡航ビザを出してもらうよう外務省に頼み込んだ。
あなたが助けて下さい
たった一人を助けるところから関わってみよう、と私を決断させたのは、「篤子さん、助けて」と名指しで助けを求めた人々の声だった。名前を呼ばれた私は、その呼びかけにどう応えるのか、何か行動を起こさなければ見捨てたも同然になってしまう、と背中を押されるかたちで無い知恵を絞り、やる気を起こさせてもらえた。そうして関わるうちに、支援とは何かについて気づかされていった。実際に日本で保護できるか否かの結果よりも、援助の過程で一人ひとりに丁寧にかかわり、「あなたを忘れない」と常にメッセージを送ることが最も大切であることを私は学んでいった。
日本が難民を多数保護する社会に成長するまで、私たちは難民との関わりを今後もたゆまず続けてゆきたいと決心している。