石塚 直人
元読売新聞記者
日本統治下で朝鮮語の辞典づくりを手がけた学者らが投獄された「朝鮮語学会事件」を下敷きに、民族の言葉を守り抜いた人たちの不屈の闘いを描いた韓国映画(原題はマルモイ。マルは朝鮮語で言葉、モイは集めること)。韓国では300万人、日本でも昨夏以降コロナ禍の中で2万2000人が足を運んだ。
朝鮮語学会は1929年から辞典の編纂に取り組み、雑誌「ハングル」も発行した。1942年秋以降、民族独立を図ったとの治安維持法違反で29人が検挙・投獄され、1945年1月に10人が懲役6~2年(うち5人は執行猶予)の判決を受けた。2人は判決に先立ち、拷問と寒さのため獄死している。背景には、総督府が37年に始めた「皇民化」政策がある。創氏改名や神社参拝、国語(日本語)常用運動などで、とくに2年後の徴兵制実施が決まった1942年春からは、学校や官庁で事実上、朝鮮語の使用が禁じられた。
辞典の原稿は押収されて行方不明だったが、解放後の1945年9月にソウルで発見され、有志がこれをもとに「朝鮮語大辞典」を刊行。後に「大辞典」と改称、全6巻で完結した。
映画の主人公は、口八丁手八丁だが読み書きのできない前科者キム・パンス。刑務所で知り合った朝鮮語学会の長老チョ先生の伝手で学会の雑用係となり、代表のリュ・ジョンファンにハングルを教わることで、言葉の世界に目覚めてゆく。辞典の編纂作業は警察の急襲で中断したが、連行され拷問で亡くなったチョ先生の自宅には原稿の写しが残り、全国から届いた方言資料も郵便局員が守ってくれていた。ジョンファンは秘密裡に、多数の方言の中から標準語を決める公聴会を開く。協力者らが議論する中、またも警察が踏み込み、2人は資料を手に逃走、パンスは射殺された。そして解放後。成長した彼の遺児ふたりを訪ねたジョンファンが差し出したのは・・・。
私は大阪外大(現大阪大外国語学部)朝鮮語学科に入学するまで、この事件を知らなかった。創氏改名などは高校で習っていたが、政治と無関係の学者の死には衝撃を受けた。これは単に警察だけの暴走ではない。熊谷明泰「朝鮮総督府の『国語』政策資料」(2004年、関西大学出版部)は、職員や生徒が朝鮮語を口走るたび罰した官庁や学校など、無数の類似例を紹介している。国民学校長や企業幹部らの座談会で「本校の誇りは鮮語(原文ママ)使用者を絶対に認めぬこと」と胸を張った校長は、仮に警官であったら平気で拷問に手を染めたのだろう。
私の住む高知県には上映館がなく、有志が県立美術館を借りて上映した。地元紙に予告記事が載ると、「反日映画」など嫌がらせも寄せられた。
その人たちにも考えてほしい。総督府によると、1942年春でも「半島内で国語を解し得る者は15%」だった。子どもならともかく、中高年以上の世代にとって外国語を習得することがどれほど大変かは、自分の身に置き換えてみればわかる。日々の仕事に追われながら講習会に1年通っても片言程度だろう。それを知ってか知らずにか、あえて朝鮮語を禁じ日本語を強制したのは誰のためか。百歩譲って善意からであろうと、許されるものではない。
東アジアの平和は軍事条約ではなく、対等な市民同士の結びつきから生まれる。歴史の事実を見る限り、かつての日本は間違いなく加害者だ。第二次大戦後のドイツ同様、その自覚と謝罪がすべての前提だと私は思う。
国内の劇場公開はほぼ終了、小規模な上映会以外はDVDかBDでの鑑賞に限られるが、日本の植民地支配の実態を知るには絶好の教材であり、映画としての完成度も高い。どうか多くの方にご覧いただきたい。
監督・脚本 オム・ユナ(2019年製作/135分)
公式HP : https://marumoe.com
5月14日より神戸市の「パルシネマしんこうえん」で上映 DVD&BD発売中