マイクロアグレッションと複合差別

金 友子
立命館大学国際関係学部准教授

■マイクロアグレッションとは?
マイクロアグレッションは、そこかしこにあって、誰でも加害者・被害者になりそうな小さな差別、今ここで起こっているのに、差別として問題化しにくい日常のやりとりを指す。
マイクロアグレッションという用語が最初に用いられたのは1970年代であるが、研究が盛んになるのは2000年代である。差別に関する研究が多方面で進み、あからさまで露骨な差別に対して、アメリカの公民権運動以降、平等主義がある程度社会的に共有されるなかでもなくならない、人びとのごく日常的な実践として残っている差別が改めて問題化されていった。この文脈で注目されたのがマイクロアグレッションである。コロンビア大学教授のデラルド・ウィン・スーは、ステレオタイプや偏見に基づく言動のうち、目に見えにくい、しかし受け手にダメージを与えるものをマイクロアグレッションとして定式化した。「簡潔に言うと、マイクロアグレッションとは特定の個人に対してその人が属する集団を理由に貶めるメッセージを発する、ちょっとした日々のやり取りである」(スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション─人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店、2020年)。

■マイクロアグレッションの具体例
具体例をいくつか見てみよう。アメリカ社会でアジア系アメリカ人やラテン系アメリカ人は「どこから来たの?」としつこく聞かれる。また、黒人やラテン系アメリカ人がお店に入ると店主が店内でその客をつけ回すという事例もある。前者は、アジア系、ラテン系の人びとに、アメリカ生まれにもかかわらず「あなたは異邦人」「アメリカ人ではない」というメッセージを伝え、後者は黒人、ラテン系の人びとに「あなたは危険人物」というメッセージを伝える。
日本の事例としては、ブラジル人移民のカルロス君が「サッカー上手いんでしょ?」と言われたり、在日朝鮮人(あるいは朝鮮半島出身)の李さんがバイト先で店長に「日本の名前はないの?」と言われるなどである。前者は誉めている(けなしてはいない)が、ブラジル人=サッカーというステレオタイプとともに、もしカルロス君が、サッカーが得意だったとして、「カルロス君、サッカー上手いね。やっぱりブラジル人はちがうなー」と言うことの裏返しである。カルロス君は努力してうまくなったわけで、彼の人種や国籍がサッカー能力に直結しているのではない。後者は李さんの名前を否定することによって、彼が所属する集団の文化を否定している。店長は客対応だから客の反応を気にしているのだろうが、「李だと嫌がる客」の存在を肯定することは、李さん(およびその集団)の存在がこの社会では望ましくないと伝えることになる。
このように、マイクロアグレッションは、多くの場合、意図せざる軽蔑、対象者を貶める言動であり、言語とともに非言語の行為(態度)を通してもおこなわれる。見知らぬ人もごく親しい人も行う。重要なのは、行為そのものは些細なものだけれども、それが伝える「隠れたメッセージ」である。このメッセージの中身は、当該地域・社会で形成され共有されている、マイノリティに対する前提や思い込み、偏見、ステレオタイプが基盤になっている。

■問題の伝わりにくさと「蓄積」
行為が些細であることが、その言動を問題化する際の障壁になる。まず、マイクロアグレッションはわかりづらく、行う人がたいてい無自覚(あるいは善意)なので、何が問題だったのか理解できない。さらに問題が伝わりにくいのは、マイノリティとマジョリティで人種(あるいは他の属性)にまつわるリアリティが異なるからである。マジョリティにとって、人種やその他の属性が人生の壁として立ち現れることはほとんどない。他方、その属性によって自由な選択が遮られ、様ざまなことをあきらめ、起こりうる不幸を常に考えてしまうマイノリティにとっては、意識せざるを得ないのがその属性である。
加えて、マジョリティにとってマイクロアグレッションは一過性の事故で、バイアスのパターンに気づかない。これは、自分が差別をしたことを受け入れたくないという信条に由来してもいる。よって、もしマイクロアグレッションを指摘されても、「そんな意図で言ったのではない」と否定したり、「考えすぎだ」と相手を非難したりもする。しかし被害者にとっては継続的に起こり続けていることの一つである。マイノリティはそれまで経験してきた現実に依拠して、当該行為には「問題がある」と判断する。それまで受けてきた数々の言動とそれに対する違和感を「点」にして、さらに教育課程やカリキュラム、メディアでのネガティブな表象のされ方、制度的差別や非制度的差別の存在と、それらを受けるかもしれないという日々の心配など、いたるところでみられる見下しや侮辱や軽蔑も併せて「線」にして考える。
しかしそれをいざ相手に伝えるのは困難である。まず、考える隙間もなく会話は流れてしまい、タイミングを失う。それがマイクロアグレッションだったと断言できるのか判断に迷う。伝えたところで人種に関して敏感すぎるとか「被害者意識が強い」と逆に非難されるだろうし、感情的になると「怒れるマイノリティ」のステレオタイプを強化することにもなる。親しい人であれば人間関係を考えるし、見知らぬ人なら伝える労力の方が負担になる。その場で言えたとして、現実的には何も変わらない。むしろトラブルメーカー扱いが待っている。だから何も言わない。沈黙や「流す」のは自分を騙すことにはなるが、マイクロアグレッションへの処し方としては、実は最も一般的なものかもしれない。

■マイクロアグレッションと複合的な差別
人種とジェンダーが複合したマイクロアグレッションの事例も報告されている。たとえばアジア系女性に特有なマイクロアグレッションの形態として、容姿に対するほめ言葉的なものが多いこと、「文化」の担い手として伝達者役割を課せられること(学校行事等で〇〇地域の文化を紹介する係をやらされる)などがある。これらはアジア系女性に対する「異国的、従順、家庭的、セクシー」といったステレオタイプを反映している。アフリカ系アメリカ人へのマイクロアグレッションは、男女で共通する経験もあるが、ジェンダーの差異によって異なる経験もある。女性の場合、ダンスが得意であるか、性的に軽いとみなされるなどである。
このように、同じマイノリティ属性をもっていても、男性と女性では異なるマイクロアグレッションに遭うし、女性でも白人と黒人とアジア系では別のマイクロアグレッションに遭う。日本社会でもおそらく同様の事態が生じているであろう。
日本での事例として、在日コリアン女性の経験を紹介したい。アプロ*の第二回実態調査で、差別の経験についての回答の中に、石を投げたりからかったりする加害者が「同級生男子」であるという記述、そして「朝鮮人だから気が強いと言われた」という記述がいくつかあった。また、学校で教員から何もしていないのに叱責されたという回答も複数あった。事例としては民族が引き金になっているが、攻撃の引き金とあり方においてジェンダーが作用している。
まず、朝鮮人を攻撃する時に女性であることが攻撃のしやすさにつながっていると思われる。さらに、「朝鮮人だから気が強い」の裏には、「日本の女性はそうではない」、控えめで慎ましやかな大和なでしこであるというイメージが透けて見える。ジェンダー役割の押し付けと、これを裏切った時の懲罰、同時に、そこからの逸脱をネガティブに評価したうえで朝鮮人と関連付けている。加えれば、これを問題化しようとすると、「ほら、やっぱり朝鮮人は気が強い」(あるいは「気にしすぎ」「怒りっぽい」)として、ステレオタイプを強化することになるであろう。
日本において、マイノリティ女性に対する特有のステレオタイプにどのようなものがあるのか、今後の調査・研究の課題である。

*アプロ・未来を創造する在日コリアン女性ネットワーク