汚染される海はだれのものか:水俣と福島

井上 ゆかり
熊本学園大学水俣学研究センター研究員

はじめに
2021年4月13日、国は関係閣僚会議において、東京電力福島第1原発からでる放射性物質トリチウムを含む処理水を海に放出する方針を決定した。2013年に専門家会合が設置され7年も議論されてきたが、漁民や他団体の強い反対を押し切り、国は海洋放出を決定した。同日、麻生太郎財務大臣(現経産省大臣)は、「飲んでも何てことはないそうだ」と発言している1。同様のことは水俣病事件でも起きている。原因企業である新日本窒素肥料株式会社水俣工場(現JNC、以下チッソ)が水質浄化装置としてサイクレーターを完成させた1959年12月、吉岡喜一社長は完工式で水路から排水をビーカーでくみ「こんなにきれいです」と周囲に見せ一気に飲み干してみせた。また、西田栄一工場長は「サイクレーターを通した水は水俣川の水よりきれいになる」と説明した。しかしこの時の水は水道から引かれたものであった。これには熊本県知事も出席し大々的に報道され、「チッソの排水は安全」であると社会に印象づけた。さらに、チッソは労働者たちにも「ここの排水は絶対に直接海に流れることはない。」2と『水俣工場新聞』で伝えた。このようにチッソは工場の内と外で安全性を高らかに謳い、同年同月に患者らと後に公序良俗違反とされる見舞金契約を結ぶことに成功した。
この完工式から29年後の1988年に吉岡社長と西田工場長は水俣病刑事裁判で業務上過失致死罪の有罪判決を受け、さらに国と熊本県は、2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決で水質二法に基づく規制権限を行使せず被害を拡大したとして賠償責任が確定した。加害責任が明確になる前もその後も食品衛生法は適用されず被害は拡大し続けた。
1956年の5月1日、熊本県水俣市で「水俣奇病」が発見され、1968年に政府によって「公害水俣病」と公害認定され今年で65年を迎える。ここでは、チッソがどのように漁民と漁業補償契約を結び、汚染した海を埋め立て漁民の生きる糧を奪ってきたのかを述べ、未だ再生産され続けている水俣病被害と漁民の生きる権利について考えてみたい。

36年間も続いた汚染と埋め立てられた海
チッソは、水俣病の原因となるアセトアルデヒド製造を1932年に開始し68年に中止するまで実に36年もの間、不知火海を汚染し続けた。この間チッソや多くの専門家たちがチッソを擁護し排水を停止しなかったことは周知されている。しかし、チッソが漁業補償契約をもとに魚の生産の場である干潟を次々に埋め立てた経緯はあまり知られていない。
チッソと当時の水俣町漁業組合との間ではじめて漁業補償契約が結ばれたのは1926年である。チッソから流出する排水残渣と埋め立てが漁獲に及ぼす影響に対し両者で話合いがもたれ、漁業組合が訴訟しないことを確認した会社が「漁業組合ニ好意的ニ見舞金トシテ」締結したものである3。この条文には、「漁業組合ハ此ノ問題ニ対シテ永久ニ苦情ヲ申出サル事」とあったため、その後1950年まで漁場被害に関する契約はなく、1943年にチッソは海に汚水とカーバイド残渣を廃棄、放流するため水俣町漁業組合と契約するに至った。この契約書の第2条にチッソは「将来永久ニ一切ノ損害補償等ヲ主張」しないことを再び盛り込み、かつ「国家ノ存立上最モ緊要ナル地位ニアルコト並ニ水俣町ノ繁栄ノ為ニ重要」であるため経営に支障をきたさない確約を漁民と結んでいる4。
1950年には2つの「漁場被害補償契約に関する件」と題された資料をみることができる。1949年に水産業協同組合法の漁業会が新法による漁業協同組合となったことで、1943年の漁業補償の権利義務を継承し、補償請求権を永久に放棄すべきであるとチッソが水俣市漁業会に依頼している5。同年同月、チッソは不知火海区漁業調整委員会(現天草不知火海区漁業調整委員会)にも同内容の「継承」の具現化で調整して貰う必要があると依頼している6。この2年後、1951年にチッソと水俣市漁業協同組合(以下、水俣漁協)は、漁業権内でチッソによる「害毒」ある場合でも「一切異議を申さぬこと」、漁業権内で将来埋め立て計画を実施する場合に「優先的に之を承諾すること」という覚書を締結している7。ここで初めてチッソは漁民の生きる糧である漁業権内の海を埋め立てる計画を示唆している。
この埋め立てについてチッソの考えがわかる資料がある。1954年5月の水俣漁協とチッソとの会談記録には、チッソが「あの埋立現地(八幡地先洲の鼻一帯、筆者注)の漁獲高はとるに足らぬものと思う」としたうえで「工事は八月迄に掛りたい」と埋め立て工事を急いでいる8。この頃、チッソが埋め立てを急いでいた理由については、チッソの排水を調査した三好礼治(熊本県技師)が「昭和十五・六年頃より工場に於けるカーバイト使用が増強され、その残渣の遺棄場所に困った会社は百間港の海中に直接排泄する状態」と報告している9。つまりチッソは残渣を廃棄する場所を確保しようとしたのである。同年7月にはチッソと水俣漁協で契約書が取り交わされ、「今後被害補償その他いかなる要求も一切甲に対して行わない事」「事業の発展が水俣市民の繁栄と幸福を齊するものであることを認識」することを漁民に念を押したうえで、「将来甲が乙の漁業権を有する海面に於て埋立を計画する場合乙は之を承諾するものとしその場合も前条の金額には変更ないものとする。」ことを確約した10。この契約書でチッソは海を埋め立てる権利と「水俣の」漁民を何世代にもわたって永久に黙らせる権利を勝ち取ったと言ってよい。
1959年8月1日、水俣市鮮魚小売商組合は水俣漁協の漁民がとった魚は一切買わないという「不買宣言」を決議した。水俣漁協への不買宣言であったものが、他の漁村にも患者がでることで不買宣言が不知火海沿岸に広がり漁民たちの生活は窮迫していく。二度に渡る抗議行動のなか補償交渉するのだが、チッソは海を埋め立てることを飲まねば契約しないと強固な姿勢を崩さなかった。さらには、水俣以外の漁協とは契約しないということで水俣漁協をさらに孤立させていった。このようにチッソは、36年に及ぶ汚染の継続、あわせて漁業資源生産の場を埋め立てて生きる権利を、そして異議申立の権利を奪う契約を繰り返すことで人格権を奪い、水俣漁協を他の漁協と分断することで不知火海沿岸漁村での存在感を失墜させていったと言わざるを得ない。

おわりに
国や熊本県の被害拡大の加害責任は先に述べた。しかし、いまもなお「漁民が弱った魚を食べたから水俣病になった」という差別事件があとをたたないのは、1968年9月に国が「メチル水銀化合物が原因」と発表するまで「加害」と「被害」の立場を明確にするのに12年も要したことが大きい。このことが今も水俣病被害を再生産し続ける一要因にもなっている。
現在も企業の利益追求を容認する国は水俣病事件から何も学んでいない。19日、水俣病被害者9団体などは、海洋放出する国の決断に対して白紙撤回を求める要望書を出した。漁を営む漁民の権利が剥奪され続けるならば水俣病事件が「教訓」とされるにはほど遠い。

1 西日本新聞、2021年4月14日朝刊3面。
2 新日本窒素労働組合旧蔵資料No.3800「水俣工場新聞」67号、1960年12月20日。
3 「水俣町漁業組合 証書」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、p.17。
4 「契約書」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、pp.54-55。
5 「漁場被害補償契約に関する件」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、p.55。
6 「漁場被害補償契約に関する件」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、p.55。
7 「覚書」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、p.60。
8 「淵上漁業組合長来社会談記録」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、pp.65-66。
9 「復命書」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、葦書房、pp.79-81。
10 「契約書」『水俣病事件資料集』水俣病研究会編、上巻、pp.66-67。