石垣 綾音
スローフード琉球
真っ白な雪景色の中に、一点の赤。そんな印象的なシーンからこの映画は始まる。
かつては「アイヌコタン」と呼ばれ、今は名を同じくしながらも、テーマパークのように「観光客のみなさんへ」のアナウンスが流れる。そんな町で、中学卒業を間近に控えた主人公が、アイヌの伝統と生活のリアルに揺れながらも、自らの土地や文化と向き合っていく物語だ。
言い換えると、日本国に組み込まれた資本主義社会の中、「観光」の名の下に自らの文化と歴史を、いや、自らの身を切り売りしながらも己が己であるために生きる人びとの継承の物語でもある。
作中では二つの対照的な「ハレ」の場が登場する。一つは消費される対象として、観光客の好奇の目に晒され、その眼差しを意識しながら行われる「まりも祭り」。一方で「村」を閉鎖し、コミュニティ内のみの人びとだけで行われるのが「イオマンテ」の儀式だ。先住民族/マイノリティの「誇り」と「文化」がマジョリティにわかりやすい形で用意され、消費されなければ、その居場所を確保することすらできない歯がゆさ。それは、ここ現代琉球においても、映画を見終わって国際通りへ向けて歩みを進める中で痛いほど感じるものでもある。物語は、そんな流れに抵抗するように「イオマンテ」の儀式に向けて進行する。その些細な抵抗は、現代を生きる上では、不必要な、もしくは邪魔なこだわりなのかもしれない。
しかし、「文化」は商品にされるために生まれたわけではないはずだ。特に先住民族の文化は、その土地と繋がりながら、生き続けるために生まれてきたものであるはずだ。だからこそ、それは博物館や学術書あるいはガイドブックの中にあるのではなく、日常の生活の中=「ケ」の中で実践されてこそ静かに息づくものである。しかし、現在の私たちには、そんな生き方ができない。だから、先住民族としての「アイデンティティ」が問題になる。
「アイデンティティ」を持つと、そこには常にそれを保ち、証明するための努力の必要がつきまとう。言語すら、「努力」しなければ失われるままだ。マジョリティのためにデザインされた社会では文化も言語も、日常の中には無いにも関わらず、所与のもの、または選択するものだとみなされるフラストレーションははかりしれない。その上で、私たちの日常の前にたちはだかるのは、私達の土地とは切り離された「国語」や「日本史」などの教科書、そして評価制度だ。マジョリティのルールに乗れば社会的な上昇を目指せるのだから、自己の価値観を外部に置き、故郷に距離を置きたがる思春期の思いにも、悲しいけれど、頷ける。
それでも。彼は、その印象的な力強い視線を持って、その葛藤と向き合う。
文化を日常に取り戻すヒントは衣食住にあることを、物語はほのめかす。自ら魚をさばき、ヤギを絞め、熊を送る行為は、この土地で生きてきた知恵と向き合い直す行為だ。「イオマンテ」の儀式は、その知恵を日常にインストールしなおす装置のように見える。
私も所属するスローフード琉球は、「よい、きれい、ただしい」食を推進しつつ、先住民族の食文化を日常に取り戻す活動でもある。原種の島の作物を追い求め、調理法等から文化を知る。食文化を通して、日常に、そして食材を通して体の中に少しずつ、土地の要素を取り戻していくことができるのだろう。
スローフードのコミュニティには、世界の先住民族の人びと、もちろんアイヌの人びともいる。先住民族の食をテーマにしたイベントでは、先住民族のどぅし(友人)としてアイヌの人びとと出会うことができた。彼の視線と対象的な、屈託のない笑顔でムックリの弾き方を教えてくれた彼女の顔を思い出した。
『アイヌモシリ』
監督・脚本 福永荘志(2020)84分
上映スケジュールは公式HPをご確認ください