本の紹介 :『食べるとはどういうことか』

栗本 知子
公益財団法人 公害地域再生センター(あおぞら財団)研究員

コロナ禍の中で小論「パンデミックを生きる指針 歴史研究のアプローチ」i を岩波新書のウェブサイトに公開して話題になった藤原辰史さんの書(2019年刊)。12歳から18歳までの子どもたちと、「食とは何か」ということをテーマに行われた座談会の記録を中心にまとめられている。
藤原さんが「食べもの」について興味をもつようになったのは、「政治的な出来事のゆえに人間たちが飢えた歴史」があるからだという。第一次世界大戦と第二次世界大戦という二つの大きな戦争に飢餓とそれへの恐怖が深くかかわっていたという。
日本では、BSE(牛海綿状脳症)や鳥インフルエンザが大きな社会問題になったにもかかわらず、問題を引き起こした不自然な畜産システム自体は見直されたことはない。農業を軽視してきた日本は、たとえば「平成の米騒動」と言われた米不足のときには、東南アジアのインディカ米を買い叩いて緊急輸入し、東南アジアでは小さな飢えを引き起こした。2006年には北九州市で独り暮らしの男性が「おにぎりを食べたい」という言葉を残して餓死する事件が起きている。
子どもたちの食生活という観点では、高度経済成長期でさえ給食で一日の重要な栄養をとって食いつないできた子どもたちが多数いた(岩波新書『給食の歴史』2019)。現在の「子ども食堂」の活動の広がりをみても、日本には飢えている子どもがたくさんいると言えるが、そうした認識は果たして日本社会の中で一般的なものだろうか。意識的に見ようとしなければ、このような現実はなかなか見えない。
本書の座談会は、今を生きる日本の子どもたちに、社会全体が「見えないようにしている」ことを見ることのできる眼力を鍛えてほしいという試みである。ものごとの芯の部分を見抜く試みを続けること、「考え抜くこと」をしないと、世の中の仕組みを表面的にしか理解せず、だまされやすくなるという危機感を持つ著者が、子どもたちに知的興奮を発見してもらいたいと願いながら、対話が続く。
「いままで食べたなかで一番おいしかったものは?」「『食べる』とはどこまで『食べる』なのか?」「『食べること』はこれからどうなるのか?」という3つの問いをもとに進められた対話の記録からは、共におにぎりと具沢山の味噌汁を食べる時間を介すなどして、「先生とわたし」という関係から離れ、互いに興味を持ちながら話を深めていく学びの息遣いが感じられる。オンラインでは実現しがたい学びではないだろうか。

評者は、大阪市西淀川区でかつて起きた大気汚染公害の経験から学ぶ教育・研修を行っている者だが、本書にみられる教育者としての藤原さんの姿勢に共感する。公害を、単に汚染物質を排出した企業を「悪者」のように表面的にしか理解しないのでは、決して公害の再発を止められない。ましてや、気候変動が人権をも脅かす現状の中で、その仕組みを理解し、社会を変革することを考えなければ、経済・社会や私たちの暮らしにとてつもない影響をもたらす。
藤原さんの発言がコロナ禍の中で注目を浴びたのは、問題を歴史研究の視点からとらえ、どこに向けて災いが社会的に濃縮するのか、警鐘をならしたからだ。コロナ禍が長期化する中、予想通り、今年も経験のない水害が起きた。今日の社会がVUCAii 社会であるだけに、問題の原因、問題や課題の関係性、将来的展望などは曖昧な状況である。そうした社会を生き抜くために必要な力は何か。本書を使って子どもたちと共に考えてみたい。

『食べるとはどういうことか』
藤原辰史著
農村漁村文化協会(農文協) 本体1500円+税
2019年3月

i https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic
ii Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の四つの言葉の頭文字からなり、未来の予測が難しくなっていることを指す。