ハンセン病からみたコロナ禍における人びとと社会の反応

内田 博文
ハンセン病市民学会共同代表/九州大学名誉教授

新型コロナウィルス感染症は世界をパンデミックに陥れている。緊急事態は、全国的に解除されたが、これで新型コロナウィルスがなくなったわけではない。今後も、新型コロナウィルスに立ち向かう日々が、日本でも続くものと思われる。

●社会不安と自己責任論がうむ「コロナ差別」
ドイツのメルケル首相は、本年3月18日、国民に理解と協力を求めるテレビ演説を行った。首相が訴えるように、コロナ禍に立ち向かうためには私たちの結束、全員の協力が不可欠となる。それでは、今の日本はどうか。新型コロナの感染者とその家族のほか、感染者を出した学校、病院なども厳しい社会的なバッシングが浴びせられており、治療などにあたる医療従事者とその家族に対する差別も各所にみられる。社会的なバッシングは、自粛要請に応じない店舗や人々に対しても向けられている。
このような「コロナ差別」が起きている要因の一つは、コロナ禍での人びとの命とくらしに対する不安である。この不安が人びとを結束と協力と反対の分裂と差別の行動に駆り立てている。コロナ以前から非正規雇用者などの社会的弱者を雇用の調整弁にして回ってきた社会は、すでに十分に不穏であり、それが市井の暮らしのなかに「自粛警察」のような攻撃性を生んでいるとの指摘もみられる。
要因の二つめは、新自由主義の「自己決定・自己責任」論の影響である。新型コロナウイルスの流行を巡り、「感染は本人のせい」と捉える傾向が、欧米に比べ日本は突出して高いことが大阪大学などの調査で分かったとされる。感染も自己責任ということになると、新型コロナ感染者を責めたり、謝罪を求めたりすることも当然、理のある行為ということになる。
ハンセン病の場合、患者を撲滅することによってハンセン病を撲滅するということが、光田健輔をはじめ専門医によって唱えられたが、新型コロナウィルスの場合も同様のことがみられる。菌、ウィルスと人とは明確に異なり、区別されなければならない。インフルエンザの場合には、そのような混同は見られないが、新型コロナウィルスの場合は、国・専門家・マスメデイアなどが恐怖を煽るために、菌、ウィルス=感染者という誤った図式が拡大している。感染者は原則隔離するという感染症法の基本構造も、この誤った図式の形成に大きく寄与している。新型コロナウィルスと闘おうという言い方がよく使われるが、菌、ウィルス=感染者という図式の下では、感染者も「敵」ということになる。ハンセン病患者は人間ではないとされ、日本国憲法の埒外に置かれたが、新型コロナウィルスの感染者や感染者になる可能性のあると疑われている者も同様の立場に置かれる可能性が強い。
私は「うつされる人」、あいつは「うつす人」という2項図式も誤った医学的理解であり、「コロナ差別」の拡大にあずかっている。このような2項図式はそもそも成立しない。感染の予防にとっても患者の治療にとってもマイナスである。しかし、このマイナスが顧慮されることはなく、自己決定論などと相俟って、人々を感染者等の攻撃に向かわせている。
国および専門家の態度も、要因としては大きい。「3密を避ける」などといった基準、それも法的な基準という形ではなく「自粛」生活の基準という形で示されるだけである。もっとも、新型コロナウィルスについては未解明な部分が多く、具体的な行動基準を示すことはできないということかもしれない。そうだとすると、そのことも国民、市民に正確に伝え、行き過ぎた「自粛」要請になるかもしれないという「負」の部分も正しく伝え、他人に「自粛」を強制する「他粛」は差別、人権侵害になるかも知れないということも伝えるべきである。しかし、そのようなメッセージは、国・自治体からだけではなく、各界、マスメデイアなどからも今も発信されていない。

●「自粛警察」と逸脱行動の類似点
「自粛警察」が行っている「非自粛行為」「反自粛行為」に対する逸脱行動は、かつての「無らい県運動」の下での逸脱行動を彷彿させる。戦後、ハンセン病の発見の端緒となったのは、小中学校の身体検査などであった。保健所等から患者の情報提供を求められた住民は「密告」に務め、保健所や自治体職員などと協力して、患者を療養所に追いやることに威力を発揮した。患者・家族は公衆浴場を使わせない、お店で物を買うことを禁止する、患者の子どもを学校に行かせないようにする、親戚付き合いをさせない、就職させない、離婚させる、などの「らい予防法」からの「超逸脱」が見られた。しかし、国の強制隔離政策を下支えしているわけであるから、国がこの逸脱を規制することは不可能であった。
新型コロナ禍の自粛警察の動きなども、これとよく似ている。欧米のような「法に基づく規制」ではなく、国の責任回避による「自粛」という名の「自己規制」を担保するという役割が自粛警察などには与えられている。自己規制であるから、その基準は各人の個人的な価値観、行動基準となる。当然、そこには「行き過ぎ」などが発生することになる。政府にとっては、この「行き過ぎ」はむしろ歓迎という面が強いことになる。そうしないと、自己規制に効果が生まれないからである。政府の自粛方針が差別、人権侵害を生んだということになる。

●コロナ禍で顕在化した社会の脆弱さ
コロナ禍は、医療だけでなく、今の日本の国、社会の歪さ、脆弱さを顕在化させている。コロナ禍は、一見すべての人に等しく襲いかかっているように思われるかもしれない。しかしそうではなく、弱い立場に置かれている人ほど、その受ける被害は深刻で、致命傷にもなりかねない。従来からの差別を強めてもいる。
アメリカのマサチューセッツ州検察局がこの5月にまとめた新型コロナウィルス感染症に関する報告書によると、生活環境が最低水準まで落ち込んでいる地域の多くが、非白人の居住区ならびに新型コロナウィルスの感染多発地域と一致していると指摘されている。被害の格差は感染率・死亡率の差だけではない。国連事務総長は先月の5月16日(現地時間)に発表した声明で、コロナ禍で、LGBTがこれまでも受けてきた差別・攻撃・暴力の危険性がいっそう高まっており、スティグマのさらなる悪化を経験していると警鐘を鳴らしている。
新型コロナの感染拡大が続くなか、障がい者もより厳しい生活を余儀なくされている。マスクの着用も障害者に問題を引き起こしている。飛沫感染から人々を守るマスクが、聴覚障害者たちにとっては障壁になっているからである。マスクをつけるとコミュニケーションのひとつである口話(口のかたち)を見ることができず困るので、透明マスクの増産や開発に協力していただける企業などが出てきてくれるとありがたい、と訴えられている。
社会的弱者の生活を何とか下支えしてきたソーシャル・ネットワークも「自粛」生活で大きなダメージを受けている。差別や人権侵害を受けた被害者のための相談窓口も、日本ではただでさえ脆弱だったが、相談要員が自粛を余儀なくされているなどのため、質、量の面で機能を大幅に低下させている。社会的弱者は下支えのない無防備の状態に追いやられている。人権が、医療、経済と並ぶ新型コロナ禍対策の柱とは認識されていない。

●人権を新型コロナ禍対策の柱に
2001年5月の「らい予防法」違憲熊本地裁判決が確定したのを受けて、国は、ハンセン病問題検証会議を設置した。検証会議は2年半に及ぶ検証の結果などを最終報告書にまとめ、2005年3月に厚生労働大臣に手渡した。検証会議が国に求めた再発防止策の柱は、「患者・被験者の諸権利の法制化」と「人権擁護システムの整備」(差別禁止法の法制化と「パリ原則」に基づく国内人権機関を創設など)であった。前者は多くの国ぐにで既に法制化されている。後者も国連から繰り返し勧告を受けている。しかし、15年たった今も実現していない。その中でコロナ禍を迎えた。深刻な「コロナ差別」が発生し、「命の選別」さえも行われようとしている。検証会議の提言を実現することも、新しい社会の構築にとって喫緊の課題といえる。