コロナ禍にみまわれた大学の中から

盛口 満
沖縄大学 学長

●「卒業式はどうしようか」
2月半ば、そんな議論が大学内で行われた。今回のコロナ禍は、地域や大学の規模、特性などによっても、その影響には様ざまな違いがあるだろう。私が学長を務めている沖縄大学は、創立60周年を超えたばかりの学生数2000名ほどの私立大学だ。平均所得の額が全国平均と比べて低い沖縄県に設置されている本学に在籍する学生の9割は県内出身者であり、バイトと学業をかけ持つ学生の割合は多い。こうしたことから、本学はふだんから奨学制度をできるだけ充実するように努力している。小ぶりな大学ながら各種奨学金の総額は、毎年1億円を超えている。特色ある奨学金としては県内企業の協力による冠奨学金制度(企業名を冠にした奨学金で、授与式には協力企業が学生本人に手渡す形をとっている)があり、この制度の中には教職員の寄付による。3口の奨学金も含まれている。

離島県である沖縄は、平均所得が低いなどさまざまな格差があるが、今回のコロナ禍においては、感染拡大に至る間に、本土と比べて若干のタイムラグがあったのは、やや幸いだったといえる。その分、ほかの大学の動向なども参考にして、対応を考えることができたからだ。3月12日の卒業式は、分散方式で実行することとした。各学科に教室を割り当て、入場できるのも卒業生と学科の教員だけ。学長や来賓の挨拶も文章による配布にとどめ、できるだけ簡素な式を執り行うことにした。後で話を聞くと、通常の卒業式より、教員と学生の距離が近い気がしてよかったという感想もちらほら聞こえてきた。何より、精いっぱい着飾った卒業生たちが互いに写真を撮りあう姿を見て、どんな形であれ、卒業式を行うことができてよかったとしみじみ思った。

●手探りで始めた遠隔授業
しかし、そこからは沖縄県でもコロナの足音は日に日に近づく速度を速めたように感じられた。4月に入ってからの入学式は中止。ただ、新入生オリエンテーションや授業登録は、なんとか通常通りの日程で執り行うことができた。本学は4月9日から新学期の始業予定だったが、どのように授業を行うのかについても議論を重ねた。
始業を遅らせる案もあったものの、いつコロナが収まるかの確証がない以上、その方策は有効ではなさそうに思えた。一方、のっけから遠隔授業を始めるとなると、ついていけない学生がいるのではないかと危惧された。そもそも教員自体が、これまで遠隔授業など考えたことがない者が(私も含めて)ほとんどであったし。
このときに小規模の大学の利点ならではの、小まわりのよさが発揮できた。教員の中で遠隔授業について多少なりとも知識や興味がある数名が、有志という形で対策チームを作り上げ、始業までの間にレクチャーを開催したり、入門的な情報を書き込んだサイトを立ち上げたりしてくれたのだ。4月9日からの一週間は演習に関してのみ対面授業を行い、学生たちへそのほかの遠隔授業への接続をする予定であったのだけれど、結局、県内の状況の悪化により、翌10日からは演習も含めて全面的に遠隔授業へと切り替えざるを得なくなり、振り返ればこうした状況は5月いっぱい続くことになった。

●思わぬ壁─低いパソコン所持率
こうした中、学生たちの実態調査を4月早々に企画、実行することにした。スマホを持っていても、パソコンを持っていない学生がいるはずだし、自宅にWi-Fiがない学生もいるはずだ。遠隔授業を始めるには、そうした通信機器や環境に不備がある学生がどのくらいいるのかについての実態調査がまず必要だと思われたのだ。調査はスマホを通じて行ったのだが、結果、学生の3割程度がパソコンを所持していないことがあきらかになった。そのため、急遽、学生貸し出し用のパソコンの手配に動くことになった。ただ、すでにパソコンの需要度が増しており、大学が新規にパソコンを入手するのは困難な状況となっていた。ここでも、一人の先生のアドバイスが大学全体の学生支援に大きな役割を果たすことになった。T先生のアドバイスと口ききにより、レンタル会社の保持していた、ちょうどリース期限の切れたパソコンを格安で100台購入できることになったのだ。同時に、海外観光客の減少により空きができた観光業者の保有しているルーターも、貸し出しをしてもらう契約を結ぶことができた。こうして、通信機器、環境が不備な学生への支援体制を早々に打ち出すことができたため、非常事態宣言が発令され、県内の大学にも休業要請が出される状況になんとか対応できたのではと思う(休業要請が出されるまでは、大学のパソコン室を、通信機器等が不備な学生へ開放して対応していた)。
安全を確保しつつ学修を保障する。これが大学に課せられた使命だ。ただし、遠隔授業への対応だけではすまされない。コロナの影響はさまざまに及ぶ。バイトの収入が減り、困っている学生への支援をどうすればいいだろうか。事務局と相談したところ、すぐに使うことのできそうな財源が見つかった。冠奨学金にあてられる毎年の教職員の寄付のうち、その年の奨学金に支給しなかった残余が積み立てられていたのだ。これを財源としたコロナ対応の特別奨学金制度を立ち上げた。さらに、後援会や同窓会からも寄付の申し出でがあり、これに続く奨学制度を立ち上げた。ただ、給付を必要とするすべての学生に対して行き届く支援ができるものではないし、給付できる学生をどう選択するのかに困難さを伴った。そこで、すでにいくつもの大学で実施されていることでもあるが、全学生を対象とした一律5万円の給付も決定した。
そうした中、「授業料や施設費の返還はないの?」とう、率直な学生からの声を何度か聞く機会があり、そのたびに個別に返答をさせてもらった。
コロナ禍の中でも、大学は遠隔授業を進め、そのための人件費などは必要であること。施設費の中には減価償却費も含まれていて、大学の施設を保持するためには、たとえ学生が登校していなくても費用がかかること。そういう点で、すぐに授業料や施設費を返却するという考えには至っていないということ。大まかに言えば、そんな話を返答に書き綴った。

●見えてきた課題
そうした対策をとる中で、大学とは何だろうという思いをあらたにすることになった。遠隔授業という形でも(実技や実習は困難だが)、ある程度、知の伝授はできる。コロナがいつ終息するか現段階では見通しが立たないし、今後また、何らかのパンデミックが起きないとも限らない。大学は遠隔授業などの教授法を、さらに準備していく必要があろう。しかし、大学はそのような形で行える知の伝授の場だけではないのではないか。そうした思いが私の中で、ふつふつと湧き上がってきた。大学という場に、リアルに人びとが行きかうことで生み出されるものを、学生たちは切実に求めているように思う。
私学には設立時にさかのぼる固有の物語が保有されている。本学は、戦前、大学が全く存在しなかった唯一の県であり、かつ地上戦で徹底的に破壊された唯一の県において、戦後のアメリカ施政下のもと、嘉数昇という一個人が、自身の苦学の体験に根差して、県内の若者の尚学のために設立した場が発祥である。例えば本学は、そのような物語に立脚している。コロナ禍にさらされる今、その創立者の原初の思いに立ち返り、本学が誰にどう寄り添わなければならないかを考えたいと思う。それと同時に、高等教育全体を見渡した時、学生本人や各家庭、そしてそれぞれの大学の自助努力で高等教育の維持が保持されている現状には、もろさがあるということを強く実感する。国の制度の下、すべての学生が学費負担に困難さを感じることなく高等教育を受ける機会を得られるようになること。これが今、私たちにはっきりと見えてきた課題ではないだろうか。