生活に編み込まれる沖縄の構造と歴史

打越 正行
沖縄国際大学 南島文化研究所

建設現場での怪我の基準
私は、2007年より沖縄で暴走族、ヤンキーの若者の参与観察を実施してきた社会学者である。参与観察とは、調査者が調査する社会や集団にメンバーとして参加する形の調査方法である。私は時には彼らが運転するバイクの後部座席に乗せてもらい、またある時には建設現場で共に働く形で参与観察を行ってきた。彼らが20歳前後だった頃に出会い、地元の先輩、後輩と日々の時間を過ごし、そして地元の建設会社で働く場面に加えてもらった。地元社会にいたヤンキーの若者が暴走族デビューを果たし、また一人前の建設作業員になる過程を、彼らが成長する時間に沿って私は記録してきた(1)

私はこの調査で初めて建設現場に入る機会を得た。そこで担当した作業は、とても過酷で、危険なものが多かった。建設現場には怪我や熱中症などはつきものだった。一般的には怪我とみなされている擦り傷や打撲、捻挫などの軽度なものは、彼らの間では怪我とはみなされていなかった。釘の踏み抜き、熱中症などからは「怪我」と認められた。ただし、それらも休みをとることのできる正当な理由とは認められていなかった。脱臼や骨折、内臓疾患などから、休みをとることのできる怪我として認められていた。建設現場における怪我の基準は、一般社会のものとは大きく異なるものだった。
ここで描いた怪我の基準は、もちろん明文化されているものではない。参与観察を通じてみえてきた、現場の従業員の間で暗黙のうちに共有されていた基準である。ただそうであるがゆえに、怪我をした本人も、怪我であることを認めず、それを理由に仕事を休もうとしなかった。よって、そのような怪我はなかったこととされるか、本人の責任として考えられていた。

異質な生活の平凡さ
ところで、日常世界における生活の手順というかやり方に対するこだわりは、人それぞれ異なるものだ。例えば、皿洗いにとりかかるタイミングなどは、人によってまったく異なる。それらは一人暮らしをしている時は異質なものとして現れないが、誰かと同居することで現れる。ある人からするとあたりまえのことが、別の人からすると考えられないほどたくさんの皿を積み上げてしまい、それが原因でトラブルになることさえある。しかし、そのような異質な生活の形は、当の本人からすると、きわめて当たり前のことを繰り返しているに過ぎない。つまり生活の形が異質であることと、それがきわめて平凡であることは、ここで矛盾しない。
社会学の参与観察で描かなければならないことは、この異質な生活の平凡さだ。生活の形が異質であることは、調査初日にでも見えるものである。彼らが学校に行かず、仲間とタバコを吸い、深夜に暴走することは、調査初日にでも見ることができる。しかし、それらの営みが、彼らの生活の文脈でいかにあたりまえとなり、日々繰り返されるにいたったのか、それをつかむことは簡単ではない。そして、その生活のなかに、沖縄の構造と歴史が編み込まれていることを明らかにすること、これが社会学の参与観察の課題だ。私は10年近くの時間をかけることで、その課題に挑んできた。調査のセンスや技術、そして経験をもたない私が、ただひとつ使うことができたのは、時間をかけることだった。

釘の踏み抜きをめぐる象徴的意味
建設現場での軽度な怪我は、日常的に繰り返されている。怪我と認められてはいるが作業を中断させるほどではないとみなされている怪我に「釘の踏み抜き」がある。現場には、釘が刺さった資材が散乱しており、大量の作業を素早く行う従業員たちはベテランであっても定期的に釘を踏んでしまう。私も何度も経験した怪我であり、悪化すると破傷風となる場合もある。現場の従業員の間では、その象徴的な意味をめぐりコミュニケーションが交わされていた。
中堅からベテランの従業員が釘を踏んだ際は、「うっ」と声を漏らし、次の瞬間にはなにもなかったかのように作業を続ける。他方で、新参者はまだそのような身の処し方を身に付けていないため、「あがーーー[いったーーー]」と雄叫びをあげ、作業を中断する。周囲のベテラン従業員は、それをみてニヤリと笑う。かつて自分も経験した踏み抜きを新参者も経験し、仲間入りを果たしたことを歓迎する笑みである。建設現場では、金づちで傷口を叩くことが治療法とみなされていた。痛さを異なる痛さで紛らわしているようだった。先輩たちは作業を中断し痛がる新参者に、「だー[おい]、(傷口は)どこ?」といい、金づちを振りかぶる。新参者はそれをみて逃げ出す。
このような過程をへて、新参者は徐々に建設現場仕様の身の処し方を習得していく。それは、外からは異質に見えていた生活技法を、平凡な形へとつくり変えていく実践である。そしてその過程に沖縄の構造と歴史が編み込まれていく。

編み込まれる沖縄の構造と歴史
釘を踏んでしまうという日常レベルでの出来事を、沖縄の構造と歴史という大きな枠組みによって直接に説明することはできない。踏み抜きは、危険を察知する予期能力、仕事の熟練度、そして偶然などによって起こることだからだ。また釘の踏み抜きは、本土の建設現場でも日常的に起こっていることであろう。
しかし、その異質な怪我の基準が平凡になっていく過程を支える従業員の関係性に、沖縄の構造と歴史は編み込まれる。沖縄の建設現場は、地元の暴走族、ヤンキーあがりの若者が多くを占める。彼らは中学時代の先輩後輩の上下関係をもとに、生活も仕事も行う。そしてその関係性は歳を重ねても軟化することはほとんどない。製造業が整備されていない産業構造、基幹産業である建設業が本土の大手ゼネコンによって収奪されてきた歴史によって、沖縄の建設業は何度も倒産を繰り返してきた。そこで生き残った会社も地元の先輩と後輩の上下関係を使ってやりくりせざるをえなかった。ゆえに、沖縄の建設業には頑として変化しない上下関係が根付いた。
釘の踏み抜きは、現場では日常的に起こる些細な出来事だ。しかし、それをないこととしたり、自己責任とするように強いる社会関係が沖縄の建設現場には強固に存在する。外部に問題化しづらい仕組みがここにある。参与観察という手法は、彼らの生活に編み込まれた沖縄の構造と歴史をときほどくことを可能とする。
現在、本土の人びとの多くも、生活にしんどさを抱えている。女性であることや、仕事が定まらないことなどは、人びとの生活に編み込まれていき、当事者でさえ見えなくさせられている。だからこそ、ときほどくことが重要であり、また異なる人びとの生活の営みをときほどきながら、互いに理解することが欠かせないのではないだろうか。

(1) 打越正行 著『ヤンキーと地元─解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房 2019年)

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