オーストリア史の家の展示

金子マーティン
反差別国際運動事務局次長

ハプスブルグ家「最後の皇帝」カール一世が1918年11月11日に退位、〈オーストリア第一次共和国〉が成立した。その100周年を祝して2018年11月10日に旧宮殿の「勇者の広場」に〈オーストリア史の家〉(www.hdgoe.at)という近代史博物館が新設された。
100周年といっても、「暗黒の時代」もあったことは黙殺できない。無抵抗のままオーストリアがナチス〈第三帝国〉最南端の大管区に編入された1938年3月から45年4月までの7年間である。「ホロコーストの犠牲者を追悼し、ナチス・テロ体制を批判的に検討することが〈オーストリア史の家〉の中心的課題」と、博物館紹介のビラに記されており、ロマ女性ワルプルガ・ホルヴァート(1923~2016年)のナチス迫害史も紹介されている
〈第三帝国〉内で最多のロマ人口を数えたオーストリア東部ブルゲンラント州。同州北部のノイズィードラ湖畔のわずか3戸のロマ部落でワルプルガは生まれた。ナチスはその「ジプシー絶滅政策」の実験場として同州を選択、1939年6月上旬にベルリンの帝国刑事警察局がウィーンの刑事警察に機密文書「ブルゲンラントのジプシーによる弊害撲滅のための予防処置」を送付、同月末までに計1142人のブルゲンタント・ロマが逮捕・移送された。440人の「ジプシー女」は半月前に設立されたばかりの北部ドイツのラーヴェンスブリュック女性専用矯正兼労働収容所へ連行されたが、ワルプルガと姉のシュテフィーもそのときに逮捕、ラーヴェンスブリュック送りとなった。
逮捕されたワルプルガとシュテフィーや従妹のカティーなど400人を超えるロマ女性たちは、ブルゲンラントの州都アイゼンシュタットの集積所に集められ、トラックでウィーン近郊のフィッシャメントまで運ばれ、そこから貨車でラーヴェンスブリュックへ移送された。同収容所に到着した直後、大浴場で入浴させられてから持参したすべての衣服や装飾品を没収され、「ジプシー棟」に収容、毎日そこから強制労働現場へ通った。ベルリンの北方80キロほどの湿地帯、シュウェット湖の湖畔にラーヴェンスブリュック強制収容所は立地したが、湖の岸辺に生える葦の採集、およびその葦を使ったナチス親衛隊経営のマット製造工場で強制労働をさせられた。ウィーン出身のスィンティ女性がその労働の監督官だったという。
ナチス敗戦寸前の1945年4月にワルプルガは6年間ほど囚われていたラーヴェンスブリュックからベルゲン・ベルゼン強制収容所(もともと兵舎や兵器庫だった建物を1941年から収容所に転換)へ転送された。そこで最初に目撃したのは、累々と横たわる死骸の山だった。ナチスはそれに油をかけて焼却したが、その悪臭が忘れられないという。
ベルゲン・ベルゼンへ移送された数日後の4月15日に、6万人ほどの同収容所被拘禁者はイギリス軍によって解放された。結核を患っていたワルプルガと健康だった姉のシュテフィーはイギリス軍によって5月にスウェーデンへ送られ、翌年10月までの1年半ほど同国で保養施設を転々とした。
なお、2人の父母および姉妹3人と兄弟3人はブルゲンラント州内の「ジプシー収容所」ラッケンバッハ(1940年開設)に拘禁、4歳年上の兄ペピとその娘がその収容所でティフスに感染して亡くなった。
生還したワルプルガはブルゲンラント・ロマ男性の興行師カールと結婚、自らも市場商として働き、息子と娘1人ずつを儲けた。