高橋くら子のいう「三重の重荷」
前回は100年前の部落女性がみずからの苦悩や困難を「二重三重の差別と圧迫」「二重三重の鉄鎖」などと表現して、婦人水平社の運動に立ちあがったことを紹介した。今回は、それらがどのような体験を指すのか、彼女らの声を通して読み解いていきたい。
まずは「二重三重の差別」とは何か。それを具体的に理解するために、ある部落女性の声を紹介しよう。長野を拠点に水平社の活動に参画した高橋くら子は「婦人の自覚」と題する一文を、『自由』と『自由新聞』という2誌に投稿している。前者では部落女性の抱える困難を単に「三重四重の苦境」とのみ表現していたが、後者では以下のようにより具体的な説明が加えられた。
殊に我が同人姉妹は、一婦人としての圧迫と、部落民としての差別と、貧困の苦しみとの三重の重荷を差負わされて居るのであります。私達は早く此の苦境から脱しなければなりません。
(高橋くら子「婦人の自覚」『自由新聞』第1号、1925年6月10日)
彼女のいう「三重の重荷」とは、女性として、部落出身者として、そして生活困窮者としての困難ということになろうか。しかし、これだけでは彼女らの体験の詳細は不明である。以下、学校生活、恋愛や結婚、そして家族生活といったライフステージに分け、その実態に迫っていく。なお、文中引用資料内の「…」は省略を意味する。
学校での体験
関東の製糸工場で勤めていた高橋みす江は、小学校時代の体験を次のように語る。
…ある日、(教員が、引用者注)「このうちにエタの子がおるなら手を上げなさい」「エタの子には本を読むことを許しません」と嘲笑ながら言いました。…無論私は手を上げることはできませんでした。それは私はエタという言葉も知らず、どういうものか知らなかった時代でした…ところがお隣の級友が「みす江さんはチョウリだとみんなが言いますから」と言いました。先生は「チョウリもエタも同じだから、本を読むことを許しません」と私の手から読本を引ったくって持っていきました。私は小さな胸が一杯になって泣きました。皆の級友は、大きな声で笑いました。私は泣き泣き教室を出ました。 …「もう学校へは参りません」…
(高橋みすえ「悲しみの中から娘子軍への努めに」『自由』第1巻第4号、1924年11月)
当時の部落の子どもたちにとって、おそらく人生で初めてたくさんの非部落民に出会う場であったであろう学校は、とても安心できる場ではなかったことがわかる。上記のような賤称語を用いた侮蔑的な行為も日常茶飯事であったようで、教員が関わる例も少なくなかった。当時の行政資料からは就学率や出席率が男児に比して低位に置かれていた部落の女児の教育実態が明らかになっているが、その原因は部落差別による貧困だけではなく上のような差別的行為でもあった。
さらに1点指摘しなければならないのは、部落内に存在した女児の教育を後回しにするジェンダー規範である。それを具体的に語る部落女性の声は存在しないが、『おんな三代-関東の被差別部落の暮らしから』を著した小林初枝は祖母(1884年生まれ)と母(1914年生まれ)の人生を紐解きながら、女であることから学業を諦めざるを得なかった2人の体験を赤裸々に綴っている。部落女性にとって学校は遠く、なおかつ危険な場所であったことがわかる。
恋愛・結婚
非部落男性との恋愛や結婚における困難を語る声は、女性雑誌の投稿に散見される。そのひとりである福島市子は、ある男性と結婚を誓い、いったんは許されたものの自らの部落出身が判明した途端、相手の父親から強い反対にあってしまう。その父親の反対の根拠は「先祖の清い血をけがすことはできない」というものであった。それを聞いた福島は身を引くことを決意して、次のようにその男性に語ったという。
…私のようなもののために、あなたの御家庭を乱しましては、私はほんとうに申しわけがございません。どうぞあなたはお父様のお言葉どおり、血統の正しいお方を、奥様にお迎えくださいまし…自分の身分を思わないで、あなたの血統正しい家庭に入ることを望んだのは、間違っていたのでした。私という者はいないものと諦めてくださいまし。…
(福島市子「生命を賭した恋をも捨てた部落の娘」『主婦之友』7巻5号、1923年4月)
「家」や「血」、「血統」などを基盤とした家父長的な共同体規範が、彼女らの前に立ちはだかる様子がわかる言葉である。これ以外に、「潰れた血」や「戸籍」が問題視された例も存在する。それらに内包されるのは「祖先」から「子孫」という縦関係の系譜意識であり、そこからは部落民もそして女性も排除されてきた。そしてその双方を生きる部落女性は、もっとも強固に拒絶される存在であったといえよう。
家族のなかで
家族のなかでの困難について、たとえば太田静子は、部落男性に対して次のように訴える。
…(男性は、引用者注)矢張り女は卑しきものとしての見解でいらっしゃるのですか。それともただ、因襲的な習慣、男尊女卑として暴君的振舞いをなさるのですか。
あなた方は、妾(わたし)たち女性、現代思潮に目覚めた妾たち迄も、依然として、人形として弄ばんとするさもしい量見では社会は許さなくなりましたことをヂット考えて頂きたいものです。…
(太田静子「暴君の男子へ」『自由』第1年第4号、1924年11月10日)
ほかにも自分の妻や姉妹、母を「軽視したり、侮辱したり」してはいないかと男性に問いかけたり、女性は「奴隷扱い」されるために生きているのかと非難する声などが存在する。ただし、それらは女性差別や家父長的家族を批判してはいるものの、どのような体験を「男尊女卑」や「侮辱」ととらえ、「奴隷扱い」や「暴君的振舞い」とみなすのか明白には述べない。いずれの声も理念的なものに止まっていて、具体性に欠けるのである。学校や恋愛・結婚などの場でのリアルな声に比して、あまりにも対照的である。それはなぜか。
その背景には、次のようなことがあったのではないかと想像される。ひとつには部落女性にとって私的な関係性における困難を具体的に記すことは父や夫を問いただすことにつながり、同じ共同体や水平社という運動体内では差し控えようとしたのではないだろうか。くわえて部落差別のある社会を生きていくなかで、家族や部落共同体、そして水平社は彼女らにとっては自らを守るシェルターのような役目を果たすものでもあった。それらへの思いが自らの言葉を遮ったとも考えられる。さらに部落内にも家父長的規範は存在したのであり、それを部落女性も内面化し、私的な関係性における権力関係や自らの尊厳・自由の喪失を困難として見出すことができなかった、ということも考えられる。
いずれにしてもそれらは、部落女性が親子や夫婦といったごく日常的な関係性のなかで危機的な状況に陥ったとしても、受忍することを意味した。家族の関係性においては部落民であることが、共同体や家族内の抑圧状況を具体的に告発する部落女性の声を遮ったといえる。
「不在」を想像すること
部落女性が語った「二重三重の差別」とは、単に部落男性の経験に女性の経験がつけ加わったものではない。とくに家族のなかでの困難を具体的に告発できない部落女性の経験は、部落男性とはまったく異なるものであったといえよう。
これまで歴史を明らかにしようとする際、存在するものに注目されてきた。しかし100年前の部落女性の声を読むにつれ、本来あるべきものがない、すなわち「不在」とされるものにも彼女らの苦しみが潜んでいるのではないかと思わせられる。学校における経験も、そもそも学校に通うことすらできなかった女性たちの抱える困難は、文字や言葉に残されていない。だが確かに存在するのだ。
その「不在」への想像力は、いま日本各地で、世界各地で起きる人権課題を考えるうえでも、必要とされるものではなかろうか。