不可視化に抗するために—100年前の部落女性は何を伝えようとしたか①

宮前 千雅子

関西大学 人権問題研究室 委嘱研究員

いないことにされる女たち

2022年は水平社創立から100年にあたる記念すべき年である。メディアなどで特集が組まれているが、水平社に少ないながら部落女性も参画していたことはほとんど取り上げられていない。今号から3度にわたって、歴史の表舞台に出ることの少なかった彼女らの声や活動を紹介していく。

そもそも部落女性の姿が部落史のなかでそして女性史においても見えない存在とされていることは、長い間、私の違和感でもあった。1980年代半ばに大学に入学した私にとって大学生活は部落出身であるという自らのルーツと向きあい、またジェンダー概念という新たな視点で自らの課題を知る4年間で、歴史学専攻であったことから部落史と女性史を学ぶことは自然な流れだった。しかしそれぞれの問題を深く学ぶにつれ、あることに気づく。それは部落史にも女性史にも、部落女性がほとんど登場しないことである。私の身近な女性たち、祖母や母たちの人生が不在とされているような感覚がずっとつきまとっていた。

 

創立大会での演説

1922年、3月3日の水平社創立大会で、大阪市内で教員をしていた岡部よし子は次のように訴えた。

部落出身の一女性として、身分をかくして、教壇に起っていた私の生活は、島崎藤村の「破戒」に出る丑松以上の苦しみでした。差別と侮辱、迫害に耐えるだけでは、いつまで経っても自由は得られません。自由と解放は自らの力によってこそ獲られるもので、この力こそ全部落民の団結です。部落婦人よめざめよ。二重、三重の差別と圧迫をとり除くために、ジャンヌダークのような娘出でよ、スパルタ武士を育てたような母になろう。

(木村京太郎『水平社運動の思い出(上)悔いなき青春』部落問題研究所、1974年)

英仏の百年戦争にあたり劣勢であったフランス軍を救ったとされるジャンヌ・ダルク、そして古代ギリシャで軍事力を誇ったスパルタ戦士の母という印象的な言葉を用い、また部落女性の困難を「二重、三重の差別と圧迫」と表現したこの演説は水平社の機関誌などでも紹介され、会場を大いに沸かせたことが報告されている。そしてこれはおそらく歴史上はじめて部落女性が部落女性に対して立ち上がりを求めた声であり、のちの時代にもたびたび振り返えられることとなる記念碑的な声でもあった。さらに岡部は他の無産階級の女性との連帯も模索した人物であり、当時、左派女性の全国組織結成に向けた大阪での取り組みにおいて鍵を握る人物だったことが女性運動指導者の自伝に記されている。しかし彼女の足跡をたどることができるのは1920年代半ばまでで、生没年さえ正確には分っていない。それは水平運動、そしてその運動史においても、さらには女性史や女性運動史研究においても部落女性は周縁に置かれてきたからである。部落男性を標準とした部落史とマジョリティ日本女性(非部落女性)を標準とした女性史において、部落女性は不可視の存在とされてきたのである。

しかしそれに抗するかのように、100年前、部落女性は声をあげた。ただし当時の部落女性をめぐる人権状況は、現在とは比較にならないほど著しく制限されており、部落差別の深刻さはもちろんのこと、女性には政治的権利は一切認められていなかった。水平社創立のころには女性の政談集会参加がようやく認められつつあったのが現実であり、声をあげるという行為は、彼女らの大変な勇気と覚悟の賜物であったといえるだろう。

 

婦人水平社の誕生-「婦人欄」での応答から

岡部が演説した翌年の1923年3月、第2回全国水平社大会で阪本数枝が男性だけではなく「婦人も水平運動をやらなければならない」とその設立を提案、可決されて婦人水平社は誕生した。具体的な動きが始まるのは翌年の第3回大会以降で、まず水平社の機関紙『水平新聞』に「婦人欄」が設けられる。

「婦人欄」での記事掲載は第1号(1924年6月20日)から5号(同年10月20日)まで続き、4号はないことから実質計4回の連載で終わった。その記事を執筆したのは1号と2号がそれぞれ左派の女性運動家である小見山富恵と山川菊栄、すなわち非部落女性で、3号と5号はケイと名乗る部落女性であった。そういう意味では非部落女性と部落女性との応答とも読める連載でもあった。ちなみにケイは、第2回大会で婦人水平社設立を提案した阪本数枝ではないかとされる人物である。

まず2号の「部落の姉妹へ」と題された山川の記事を紹介しよう。山川は部落差別の事例をいくつか紹介して、その背景にはそれぞれ部落出身者の部落差別に対する「卑屈な心持」があるとして次のように指摘し、その覚醒を求める。

…禍は、特殊民に生れたということにあるのではなく、特殊民たることを恥ずる、この理由のない卑下、卑屈にあるのです。自分で自分を奴隷視し、賤民扱いする所にあるのです。人間が人間に生れたことを恥じてどうなりましょう。(中略)この卑屈な奴隷根性こそは奴隷の奴隷たる所なのです。…

(『水平新聞』第2号、1924年7月20日)

確かに部落出身であることを卑下する必要がないのは確かだが、そのように思わせられるほど被差別者は追いつめられ、差別を内面化してしまう構造的な問題があることには全く触れられていない。これに応答するかのように4号に記事を寄せたケイは次のように訴える。

…部落婦人の立場を考えずに新聞で或は雑誌で、部落民内外の男女の方から、私共姉妹に自覚を促されるのを度々見受けますが、誠に不愉快でなりませぬ。例えそれがどれだけご理解された人々にもせよ、今迄の立場から直接の迫害を加えなくても間接にもせよ、私共を苦しめていた側の人である以上、どうして私共のこの苦しみを知ることが出来ましょう。…

(『水平新聞』第3号、1924年8月20日)

ケイの記事の題名は3号も5号も「部落婦人の立場から」で、本文では「姉妹」を多用しながらもあえて題名には使わず自らの立場を明確にして記事を書く姿勢は、自分の立場を問わずに被差別者を非難する山川への反論のように私には読める。 さらにケイは部落女性の抱える困難を「三重の苦しみ」として、具体的に次のように記す。

…それは申すまでもなく、一 部落民であるが故に(男性よりも遥かに侮蔑を受けています)、二 生活の自由がない故に(殊に部落民は職業の自由を奪われている為に、たいていプロレタリヤで経済上に搾取されています)、三 女性であるが故に(これは部落婦人に限らず一般社会的に男子より奴隷的扱いを受けています)苦しめられている事です。 しかしながらこれらは、人の力でどうする事も出来ない自然の約束ではなく、人間が人間を支配する為に勝手にこしらえた道徳や、長い間の間違った因襲なのです。…

(『水平新聞』第3号)

部落女性の困難の背景には日本社会に根付いた規範や制度があることも、ケイは見抜いている。さらに同じ記事内で部落男性に女性を見下していないかと反省を迫り、第5号では非部落女性に対して部落女性を「賤視」していないかと問うていく。そして「二重三重の鉄鎖」(第5号)を断ち切るために立ち上がることを、部落女性に広く訴えかけていった。 その言葉に呼応するかのように、1924年秋ごろから関東や九州で地方婦人水平社が設立されていく。「二重、三重の差別と圧迫」や「二重三重の鉄鎖」という表現は、部落女性の経験から編み出された抵抗の言説だといえるだろう。

現在、交差性(インターセクショナリティ)という概念で複雑に入り組んだ権力関係を読み解き、これまで周縁化されてきた存在を照射しようとする営みがあるが、100年前の部落女性の声は彼女らがそれを実践しようとしつつあったことを教えてくれる。また、いつまでも彼女らの存在を不可視の存在とする研究や運動、メディアに問いかける声でもある。

●みやまえ ちかこ