サルツブルクのロマ

金子マーティン

反差別国際運動事務局次長

 

1 「斬り捨て御免」の対象だった中世後期のロマ民族

現在のヨーロッパ諸国に相当する各地の『年代記』などに14世紀末期から「色黒の異邦人」の到着が記録されるようになった。それら「よそ者」たちに領土内での自由な移動を保証する「保護状」を発給した開明的君主もいたが、1498年召集の神聖ローマ帝国議会はそのような保護状の無効と、「ツィガイナー(Zigeiner)」などと呼ばれるようになったそれらの人々の法的保護の剥奪、つまり「斬り捨て御免」と領土内からの追放を決定した。大司教が統治したサルツブルク1は、侯国として1803年まで神聖ローマ帝国に属した。

16世紀の中央ヨーロッパ人にとって社会的脅威をなしたのは、第一にオスマン帝国軍(イスラム教徒)の侵略、そして第二に疫病(黒死病)の流行だった。聖職者による「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れ、ペストを流行らせた」などの事実無根な説教を人々は信じ、「ユダヤ人」や「ツィガイナー」に対する憎悪と差別感をますます強めていった。

1526年公布の「サルツブルク領規則」は、「ツィガイナー」関連の条項も含んでいた。「トルコ軍のスパイ」と目され、「詐欺師、背信者や盗賊」と同一視された「ツィガイナー」は、サルツブルク領内でも「斬り捨て御免」と追放の対象だった2。各小国が「ツィガイナー追放令」を公布し、それを国是にしていたのにもかかわらず、ロマ民族の流入は止まることがなかった。3回逮捕されれば極刑に処せられたロマたちは、家族と自らの命を護るため、国から国への逃亡=移動生活を繰り返した。つまり、ロマ民族の習性だと主張される「放浪」は、社会的迫害がその要因だったのである。

2 ナチス統治下におけるサルツブルク州のロマ収容と強制労働

ナチス・ドイツは1938年3月12日に無血でオーストリアを「併合」、同年末にサルツブルク刑事警察内に「ジプシー部局」が設けられ、ロマの「取り締まり」が一層強化された。ナチス親衛隊首領兼ゲシュタポ(秘密警察)統率者でアードルフ・ヒットラーの側近、ハインリヒ・ヒムラーは39年10月に「ジプシー収監通達」=移動禁止令を発布、各都市に「ジプシー収容所」が設置された。

サルツブルク市でもすでに同年6月ごろ競馬場内に臨時の「ジプシー収容所」が設けられ、同年10月に「マックスグラーン・ジプシー収容所」が開設した。そこに収容された300人ほどのロマたちはアウトバーン建設や河川改修工事の強制労働に駆り出された。また、ヒットラーお気に入りの映画監督で「総統の愛人」と噂されたレニ・リーフェンシュタールは、スペインが舞台の映画『低地』で「スペイン人風」のエキストラーとしてのべ83人の「マックスグラーン・ジプシー収容所」被拘禁ロマを無賃で使役した。それら被拘禁者全員をアウシュウィッツ・ビルケナウなどの絶滅収容所へ転送してからマックスグラーン収容所は43年4月に閉鎖した3。

3 サルツブルクのロマ組織〈プルド〉

サルツブルク在住のロマ数名が2013年に自助組織〈プルド・サルツブルク(Phurdo Salzburg)〉4を立ち上げた。プルドとはロマニ語で橋を意味する。ロマ移住民と多数派市民との懸け橋になろうと、NGO〈プルド〉の役員はロマとガジェ(非ロマ)とがそれぞれ半々を占めるという。

訪れた〈プルド〉の事務所はかなり広く真新しかったが、その事務所に引っ越したのは2017年1月、サルツブルク市当局が事務所を提供してくれた。自己紹介を済ませ、何かを質問しようとする前に〈プルド〉会長のライム・ショベスベルガーさん(Raim Schobesberger)は熱っぽく語り出した。インド文化研究評議会が2016年2月にニューデリーで開催した「ロマ民族のインド起源を探求する国際会議」のことを5。その会議に参加したライムさんは、「どこであろうと拒絶されることが常であるわれわれロマたちをインドの主催者側は大歓迎してくれた。おかげで自負心を高揚させることができた」。また、「ヒンディー語とロマニ語とのあまりの類似性に驚いた」と嬉しそうに語った。会議の終了後、2週間ほどインドの名所旧跡を案内されたという。

マケドニアの首都スコピエ市から西方へ150キロメートルほどのブルガリア国境近くロマ集落で、子ども6人の貧しい家庭でライムさんは生まれた。もともとの職業はコックだったそうだ。数年間「ロマの街」シュトカで暮らした後、1981年にドイツへ移住、94年からサルツブルクに腰を落ち着けた。ライムさんによれば300家族ほどのロマがサルツブルクで暮らしいているそうだが、自らの出身を表明しないロマ出身者もいるだろうとのことだった。

現在はそのほとんどの国々がヨーロッパ連合の加盟国になっている旧東欧諸国から多くの移民・難民が毎日ほどサルツブルクにも流入する。当然それらの移民・難民のなかにはロマも含まれる。オーストリア社会に受け入れられる前提として、移住者はまず役所の住民登録課で住民登録を済ませる必要がある。住民登録をしなければ住居や職場も確保するのが困難であり、子どもを通学させることもできない。住民登録の用紙は役所かタバコ屋で手に入れられるが、記入項目は姓名、出生年月日、性別、信仰宗教、配偶関係、国籍、旅券番号、住民登録する自治体での住所と多くはない。だが、住民登録をためらう流入者も多い。そこで〈プルド〉はサルツブルクへ流入したロマたちの住民登録を代行する。オーストリア社会に統合するための第一歩がその住民登録である。

流入ロマが住民登録を済ませた後、〈プルド〉は健康保険の手続きも代行、職場も斡旋する。今まで30人ほどのロマに職を斡旋したそうだ。社会福祉事務局、健康保険組合、銀行と〈プルド〉の四者が協同で「労働市場でのロマ・エンパワメント」というプロジェクトに取り組んでおり、もちろん最低賃金以下の仕事は斡旋しないし、雇用主が最低賃金法を厳守するようチェックする。

毎年、4月8日の〈国際ロマ・デー〉はサルツブルクでも祝うし、ロマ民族の虐待史を記憶に残すため、毎年4月末に「マクスグラーン・ジプシー収容所」跡で追悼式典も行う。〈プルド〉以外のオーストリア・ロマの組織もそれに参加する。

今までロマ人権運動活動家から何度も耳にしたのと同じロマ社会の問題点についてもライムさんは言及した。それは早婚の旧慣である。その是正が必要であることを活動家のだれしも認識している。ところが、だれも具体的な第一歩を踏み出せないでいる。「問題は山積しているのに、われわれロマ活動家の行動はまったく不十分な状態にある」と、ライムさんは重ね重ね嘆いた。ロマに対する社会的差別との闘いで手一杯になっており、解決すべき民族内部の課題になかなか手が回らないのだろう。

1  オーストリア北西部の州Salzburgおよびその州都Salzburgの現地での発音はサルツブルクであり、日本で一般化している北部ドイツ風発音の「ザルツブルク」でない。

2  Peter Putzer, „Wie lustig war das Zigeunerleben ? Ein Beitrag zur Geschichte des Erzstift-Salzburgischen Zigeunerrechts“(「ジプシー生活はどれほど愉快だったのだろう? サルツブルク司教区のジプシー法についての論考」, Salzburger Archiv 20, Salzburg, 1995, 69ページ。

3  金子マーティン『「スィンティ女性三代記(上)」を読み解く』凱風社、2009年、93~97、103~104ページ参照。

4  ロマニ語・ドイツ語・英語・ルーマニア語・ハンガリー語・スロヴァキア語・スロベニア語のホームページ:www.phurdo.org

5  „ICCR conference to explore ‘Indian origins’ of Roma people“, The Times of India, 12-02-2016.