オーストリア・ブルゲンラント州オーバワート市のロマと〈カリカ協会〉

金子マーティン(かねこまーてぃん)

日本女子大学教授、IMADR事務局次長

 

1.ブルゲンラント・ロマ

第一次世界大戦敗戦後の1918年10月建国のオーストリア第一共和国は、無抵抗のまま20年足らずで1938年3月12日にナチス・ドイツに「併合」され、ナチス〈第三帝国〉最南端の大管区になった。オーストリアがハンガリーとの国境を接する最東部のブルゲンラント州は、ナチス〈第三帝国〉内で最多のロマ民族が暮らした地域であり、ナチスがその「ジプシー政策」を実験した現場にもなった。

ドイツ本国よりもナチスの「反ジプシー政策」がオーストリアで早期に実施された場合もある。たとえば1939年6月、「ジプシー学童はドイツ国籍の同級生に道徳上そのほかの悪影響を及ぼす危険性があると認められた場合、学校から追放することができる」という布告をベルリンの〈文部・国民教育省〉がウィーンの〈内務・文化省〉に発したが、同様の「ジプシー通学禁止令」が〈第三帝国〉全域を対象に発布されたのは1941年3月になってからのことである。

1927年の州警察調査によれば7,164人のロマがブルゲンラント州内で把握されたが、ナチス支配下当時その全員が強制収容所へ収監され、その大多数は生き延びることができなかった。ベルリンの〈帝国刑事警察局〉は「ブルゲンラント・ジプシーによる弊害撲滅のための予防措置」なる文書を1939年6月にウィーンの刑事警察に送付、「ジプシーや混血ジプシーの16歳以上の男2,000名をダッハウ収容所へ、15から50歳の女1,000名をラーヴェンスブリュック収容所へ引き渡すよう」指示した。また、州内にあった130ヵ所ほどの「ジプシー集落」は鉄条網で囲まれ、「予防拘禁」の名目で逮捕されたロマたちはアウトバーン建設などの強制労働に投入された。さらに1940年11月、「ジプシー収容所ラッケンバッハ(Lackenbach)」が設置され、そこでもロマたちは採石場や河川改修などの強制労働で酷使された。ラッケンバッハは中継の収容所であり、被拘禁ロマのほとんどはそこからアウシュウィッツなどの絶滅収容所へ転送された。

ナチスがポーランド中部の工業都市ウッチ(Łódź)に設置したユダヤ・ゲットー内に便所などの衛生設備もない「ジプシー収容所」が急造され、1941年11月にブルゲンラント州から計5,007人のオーストリア・ロマがそこへ追放された。不潔だったため収容所内で発疹チフスが大流行、300人以上の被拘禁ロマが病死したが、生き残ったロマたちは翌月から翌年1月にかけてウッチの北西70キロほどのところに設置された絶滅収容所のヘウムノ(Chełmno)へ連行され、移動ガス室(ガス・トラック)3台を使って一人残らず毒殺された。

ブルゲンラント州オーバワート郡警察が1946年に作成した報告書によれば、「オーバワート郡のジプシーほぼ全員が人種政策的理由から強制収容所に拘禁され、大半がそこで命を落とした。戦前、オーバワート郡にいた3,000人を上回るジプシーのうち、生還したのは200人に満たない」とされている。93パーセントの高死亡率ということになる。ちなみに現在のブルゲンラント州のロマ人口は戦前よりも少ない2,500人から4,000人のあいだと見積もられている。社会的差別を回避するため、多くのロマは自らの出身を公表しないため、正確なロマ人口は不詳である。

第二次大戦後、複数のロマ組織がブルゲンラント州内で結成されたが、結成年順に〈ロマ協会〉(1989年)、〈ブルゲンラント・ロマ市民大学〉(1999年)、〈ロマ・サーヴィス〉(2004年)と〈カリカ協会〉(ホームページ:www.verein-karika.jimdo.com)である。

 

2.〈カリカ協会〉の「成人教育指導者・コンサルタント養成講座」

正式名が〈ロマとスィンティのためのカリカ協会〉であるこの組織の結成は2013年11月、組織名の「カリカ」はブルゲンラント・ロマの民族語ロマンで円を意味する。事務所所在地はオーバワート市内、オーストリア初のロマ組織〈ロマ協会〉も同市内に事務所を構える。1995年2月のパイプ爆弾テロ事件によって4人の若いロマ男性が犠牲になったオーバワート市の外れにあるロマ集住地区で生まれた40歳代後半のパウルとマーティンが〈カリカ協会〉の代表者、二人とも苗字をホルヴァートという。典型的な姓のいくつかがブルゲンラント・ロマにあるが、ホルヴァートもそのひとつ。なお、マーティンは2015年6月から「みどりの党」所属の市議会議員としても活躍している。

2014年発表の『オーストリアにおけるロマとスィンティの教育実態』という報告書によれば、オーストリア生まれのロマとスィンティの26歳から50歳までの年齢層は、45パーセントが義務教育を修了しているものの、15パーセントは未就学である。ロマ民族構成員が社会的に上昇しようと思えば何よりも教育が重要課題であるが、安定した職にありつくためなんらかの職業上の資格を取得する必要性もある。それを〈カリカ協会〉は2016年6月から実践しており、その活動を参与観察した。

私は自己紹介のあと、なぜロマの人権問題に関わりつづけているのか、また日本にどのような被差別集団が存在し、どのような人権運動が展開されているかなどを30分ほど話し、旧知の〈カリカ協会〉幹部、講座の受講生や講師からさまざまな日本関連の質問もあった。クラインバッハ・セルテン村のロマ集落で〈ロマ・サーヴィス〉を立ち上げたチャーリこと、エメリッヒ・ホルヴァートも途中から論議に加わった。〈ロマ・サーヴィス〉がもっとも力を注ぐ活動はロマの民族語保存運動であり、ドイツ語とロマン語2言語の機関誌を2004年4月から発行している。

〈カリカ協会〉による活動の中心は、地元および隣国ハンガリーなど東ヨーロッパ諸国から流入する移住ロマの社会統合とその人権擁護、またそれらロマの教育と助言などである。その一環で「成人教育指導者・コンサルタント養成講座」を2016年6月からスタートさせた。

その講座の受講生は長期失業状態にあるオーバワート・ロマの若い男女それぞれ4人の計8人。半年間に通算500時間の授業を受けたのち国家試験に臨むが、講師は教育学者で心理療法士でもあるウィーン大学の退職教授カール・ガルニッチニク先生。〈カリカ協会〉によるその講座を経済的に補助しているのは、地域住民の求職活動を支援するブルゲンラント州の「労働市場サーヴィス」という公共機関である。

休憩時間後、受講生、講師やブルゲンラント州のロマ人権運動活動家たちの活発な論議があり、受講生たちはさまざまな不平を漏らした。オーバワートのロマ集落が標的になった1995年2月の爆弾テロ事件の10ヵ月後、ウィーンで「ロマ基金(Roma-Funds)」が設けられ、ロマの若者の学校教育や職業訓練などを経済支援する体制が整った。だが、たとえば元強制収容所跡の見学ツアーなどが企画され、その参加費を工面するため「ロマ基金」に申請書を提出しても、却下されるのが常だと数人の受講生が苦情を述べた。

ロマ民族関連の公的および民間の団体や組織複数がオーストリア国内にあるが、それらの団体や組織は絶えず活動費不足に直面する。国家によるその経済支援は年間わずか38万ユーロ(約5千万円)だという。中央政府も地方自治体も本気になってロマ民族の人権問題に取り組まないかぎり、EU圏内最大の人権問題であるロマ差別の抜本的な解決は困難だろう。とにかく、〈カリカ協会〉の講座に参加する受講生たちが半年後に安定した職に就けるよう願う。