『日本と沖縄』 ── 常識をこえて公正な社会を創るために 出版記念講座開設(2)

まとめ 編集部

 

『日本と沖縄』の執筆者5人による連続講座は、第4回(10月5日)当真清嗣さん、第5回(11月8日)徳森りまさんの講演で全日程を終了した。沖縄・高江のヘリパット建設をめぐって、政府は日本全国から500名を超える警察官を動員して、市民の抗議行動を暴力的に封じこめようとしている。その中で起きた警官による「土人」「シナ人」発言は県民の大きな怒りを買った。世代も異なるお二人の海外経験を通じて得た「ウチナーンチュの視線」に注目した。

 

第4回:ウチナーンチュの言葉・文化・歴史-世界の先住民族と共に

講師の当真清嗣さん(琉球弧の先住民族会元代表)は、1949年、米軍支配下の沖縄に生まれ、米軍政府発行のパスポートを持って上京し夜学に通い、また20代後半からはアメリカに留学し6年間働いた。「沖縄の私たち戦後世代は、米軍の占領下、日本人としての誇りを持てといわれ、ウチナーグチ(沖縄言葉)の使用を戒め、ヤマトウグチ(日本語)を使うように厳しく教育された。日本語を使えるのは立派で頭のいい人たち。ウチナーグチを使う私たちはダメな人間ということを小さい頃から思い込まされていた。これには後で気が付く。40年、50年あと。沖縄の大学はダメだから日本の大学へ。さらに日本より上はどこかということでアメリカへ」という選択。沖縄に帰って学習塾経営、地元読谷村の教育委員や助役を経て、米軍の下請け仕事をしていた頃、NGOや市民運動などに出あい幅広く関わっていく。

2016年8月、当真さんは「ベテランズフォーピース(VFP)」(平和のための退役軍人の会)の大会に参加した。前年12月、その団体は沖縄の辺野古にきて基地の前で反対運動をして、日本の警察に排除されるということが大きく新聞にのった。また9月、アジア先住民族会議の総会で、北はアイヌ、南は琉球、台湾の東アジア地区選出の理事になった。

東京とアメリカの経験、沖縄、そして海外の仲間との結びつきで、ウチナーとして活動するなかで、「孤独でいるよりは常に連帯の気持ち、断絶するよりは継続し、決裂するよりは和解を、という気持ちを常に持っていきたい」と当真さんは語った。

 

第5回:沖縄の声を届ける 世界に、日本に、一人ひとりに

 20代の著者・徳森りまさん(島ぐるみ会議国連部会メンバー)は、沖縄系ペルー人3世の父をもち、南米ウルグワイとブラジルで幼少期を過ごした。大学卒業後、基地問題や平和運動に携わるきっかけがあり、「こんな世界があったのか」とショックをうけ、「これは大変だ、もうちょっと勉強してこの世界でやっていこう」。徳森さんは「島ぐるみ会議」の事務局を担い、辺野古新基地予定地へ毎日バスを出し、2015年9月には翁長知事の国連訪問にも随行した。2016年1月からはボランティアで南米コロンビアに派遣された。内戦で傷ついた人びとを「癒す」仕事で。

コロンビアは紛争が50年続いてきたため、国としてもコミュニティ毎にも、紛争の歴史、ストーリーがあり、たくさんの記念日がある。そういう時に徳森さんは、6月23日の慰霊の日を「沖縄のメモリアルの日」と説明する。しかし、沖縄戦の被害者の「社会統合」や「心のケア」は十分でない。70、80代になった被害者の方々が夜も眠れない、死体が足の裏についた時の感触がよみがえってくるなど、今も苦しんでいる症状を、10年前に蟻塚亮二先生(精神科医)は「沖縄戦PTSD」と名付けた。この沖縄戦PTSDのことが頭にあったので、コロンビア行きが決まった時、自分はコロンビアの70年後の未来から来ているんだ、私ができることがあればという気持ちで行ったが、実はコロンビアの方が進んでいた。NGOによる被害者支援は当たり前だった。逆に沖縄はなんて国際社会から、そして日本から置き去りにされていたのかと感じたという。

自分たちの世代が言葉や歴史、戦争体験者の記憶の継承をしていかなくてはという思いで、「世界のウチナーンチュ大会」(2016年10月)に来た若い人たちで、基地だけじゃなく自然や人々にふれあう「高江・辺野古ゆんたくバス」を組織して好評だった。徳森さんには、国際社会に沖縄の現状を訴える様々な行動をしていく情熱にあふれていた。