「世界のウチナーンチュ大会」を終えて ──新しい沖縄の未来を考える

徳森りま(とくもりりま)

高江辺野古ゆんたくバス2016実行委員会

 

2016年、まだまだ夏真っ盛りの10月。沖縄島は5年に1度の「世界のウチナーンチュ大会」に沸いていた。今からおよそ1世紀前、沖縄から多くの人びとが北米、南米、南洋諸島などへ出稼ぎに旅立った。私の祖先もその一例で、100年前に曽祖父母が離島・平安座島から南米・ペルーへと移民した。沖縄では、「県民の4人に1人が海外移民の親族を持つ」といわれているが、この言説には沖縄の歴史にみる海外移民の勢いと、どんなに遠い血縁関係でも「ウチナーンチュ(沖縄人)であることには変わりはないさ」という同胞意識が見て取れる。ウチナーンチュ大会はこうした世界中に散らばるウチナーンチュの子孫が集い、絆を確かめ合い、次世代へ沖縄の歴史・文化を継承する機会である。期間中は、英語、スペイン語、ポルトガル語、さらにはシマクトゥバ(沖縄語)が道端で飛び交い、生まれた場所は違えど、皆ウチナーンチュであることを実感しながら地元の人との交流を楽しむ。

 

さて、この華々しい舞台の傍らで、私たち地元有志はある企画をしていた。それは、海外からの大会参加者らを東村・高江と名護市・辺野古に案内するバスツアーである。在日米軍の新基地建設予定地として知られているこの場所に、各国から来たウチナーンチュたちを連れて行き、現在進行形で起きている人権侵害の状況についてどうしても見てほしかったからだ。

 

 

沖縄の現実をみてもらう

 

バスツアーの実行委員会には沖縄県内外・国内外の大学生を中心に約20人が加わった。各国言語での案内作成、参加呼びかけ、準備手配など、1か月足らずでこなした。実施に当たっては、次の点に留意していた。主張の押し付けにならないように、「現地で見て、感じて、考える」という主体的な学びを中心に据えること、ゲート前の訪問だけでなくやんばる(沖縄島北部)の貴重な自然を体感してもらうこと、そして沖縄の自己決定権についてのレクチャーを入れることの3点である。大衆向けではなく少人数制の企画にするつもりだったので、意識の高い参加者を集めるべくエントリーシートも意図的に少しハードルの高い項目を設けた。例えば、「自国に戻った後にこのツアーの経験をどのように活かしますか」というように。結果、「地元の沖縄県人会で基地問題について報告会を開催する」「これまで関わってきたカナダの先住民族運動との連携を図りたい」など、実行可能性の高い回答が得られた。

 

参加者の呼びかけを新聞紙面で行なったその日、沖縄総合事務局から呼び出しの連絡を受け、旅行業法へ抵触しないかとのチェックが入った。幸い何の違反にもあたることなく実施できたが、わざわざ沖縄総合事務局が出てくるあたり、勢いだけで走り出した私たちの企画も「目をつけられるほど」のことをやっているのだな、とちょっぴり実感した。今まで世界のウチナーンチュに基地問題を伝えようなんて取り組みは、おそらく誰もやってこなかった。海外のお客様を歓迎するめでたい場に、基地の話なんて本当は誰だってしたくはない。だが、辺野古に加えて高江での工事強行、それに伴う機動隊の暴力、市民や報道記者への弾圧・・・もうそんなことは言っていられない段階にまで事態は及んでいた。ことは政治問題ではなく人権問題なのだ。そんな状況で、同胞のウチナーンチュだからこそ「沖縄の痛みを知ってほしい」と願う県民だって当然いる。新聞発表後、私のもとにはそうしたウチナーンチュたちから激励の電話が続々とかかってきた。

 

 

辺野古のバスツアー

 

当日はブラジル、アルゼンチン、ペルー、アメリカ、カナダ、オーストリア、台湾の7か国・地域から申し込んだ海外参加者15名、県内参加者5名の合計20名でツアーを実施した。車内ではU-DOU&PLATYの軽快なラップをBGMに自己紹介しあった。参加者から口々に「故郷の基地問題のことは気になっていたけど自国へ伝わるニュースは限られていたし、自力で行くのも難しかった。この企画は大変ありがたい」と感謝された。

 

辺野古ではテント、ゲート訪問に加えて大浦湾をグラスボートで見て回った。海の青の深さと巨大な珊瑚礁に全員が息を呑んだ。ゲート前ではブラジルからの参加者が自己紹介をすると、座り込みの市民が「あなたのおばあさんは私の小学校の同級生だよ」と声をかけてくる場面もあった。ウチナーンチュの地域ネットワークというのは、どこに行っても何年経っても強固なものだと実感した。昼食の最中にも県内外のメディアやジャーナリストから参加者への取材が絶えず、代わる代わる対応する有様だった。

 

高江までの道のりでは自己決定権についてのレクチャーを行ない、ウチナーンチュが国際人権法上は先住民族の立場にあたること、沖縄で起きている人権侵害が基地問題に派生する個人や被害地域単位のものではなく薩摩侵攻にまで遡る共同体に対する主権侵害であり、歴史的な差別の象徴であることを説明した。参加者は興味深く聞き入りながらどこか「やっぱりな」という顔をしていた。後で尋ねると、「ウチナーンチュが先住民族だと聞いて政府がなぜ沖縄に酷い仕打ちをするのか納得した」「すぐにピンときた」と話してくれた。

 

ちょうどこの1週間前、大阪の機動隊員が市民に対して「土人」と発言した。沖縄メディアこそ大々的に報道すれど、日本本土や県内でも若い世代の間では「何が問題なの?」といった認識であった。しかし、海外で育ったウチナーンチュたちはその差別を初めから知っていた。というのも、海外の日本人社会の中でもウチナーンチュは日本人から蔑まれ、祖父母や親の時代の話としてヤマトと沖縄の間に差別があったことを知っていたのだ。ブラジルからの参加者に「土人」発言についてどう思うか尋ねると、「サンパウロに移住した祖父母が『沖縄産』と日本人に呼ばれ差別されたと聞いていたが、100年経ってもまだ沖縄に差別があるとわかった」と話した。

 

 

絶ってはいけない生命の鎖

 

高江では、住民の方に森の中を案内してもらい、木を1本切ることが過去・現在・未来のどれだけの生命を絶つことなのかを教えていただいた。貴重な蝶を探したりトカゲを手のひらに乗せて遊んだりして参加者同士の仲も自然と深まった。日が暮れる前にN1テントに行き、住民の会の方から高江のヘリパッド建設問題の説明を受けた。その最中に工事車両の通行があり、大量の機動隊員が急に現れて市民を取り囲む場面に遭遇し、参加者たちは「異様だった」と後に口をそろえて話した。一方、市民にとっては日常茶飯事なのでその場で最後まで説明を続けたのだが、それについても「動じなかった市民らはとても勇敢だった」「ウチナーンチュの運動をとても誇りに思う」と話していた。

 

夜は東村に1泊し、満点の星空の下で泡盛を飲みながら、なぜ沖縄社会で基地問題について語ることが難しいのか、沖縄の状況が海外で知られていない要因は何なのか、これからお互いに何ができるのかなどを話し合った。翌日は地元の滝でひと泳ぎした後、ツアーの感想を述べながら帰途に着いた。

 

ブラジルの参加者は「自然に触れられたことが一番心に残った。自然は宝物で、絶対に壊してはいけない」と車内で語った。また、アメリカの参加者は「沖縄の自己決定権が確立され、米軍基地から解放されるよう、私たち世界のウチナーンチュが支援しなければならない。沖縄が解放されなければ、私たちの心も自由にならない」と、ツアー後に全国メディアの取材に答えた。

 

今回の企画の大きな成果は、心から信頼し沖縄の未来を多様な視点から模索できるシンカ(仲間)を得られたことだ。大会が終わって彼らは世界各地に戻っていったが、私たちの心は繋がっており、今でもSNSを通じて連絡を取り合う。離れた場所にいるからこそ故郷のためにできることを一人一人が真剣に考える。国内に目を向ければ憂慮するしかない事態ばかりだが、私たちウチナーンチュは絶対にあきらめない民だ。世界中にいるウチナーンチュたちとともに、これから新しいアクションを起こしていくのを楽しみにしている。