「アイヌ」の当事者として考えること

北川 かおり(きたがわかおり)

主婦

 

1980年代終わりからの日本の国際化のスピードはすさまじく、多文化共生の掛け声は大きなもので、東京も多様な国籍、民族の人びとが行きかうようになり、聞いたことのなかった言葉があちこちで話されて、いろんな食べ物屋が次々に開かれた。私はその中で漠然とアイヌの人びとのアイヌ文化実践の運動も多文化の一つとして社会に抱合され、アイヌ差別は昔話になっていくのだろう、と思っていた。

だが、私の予想は2014年8月の金子快之札幌市議(当時)の「アイヌはもういない」発言に触発されて、ネットを主としてアイヌへのヘイトスピーチが堂々と繰り返されるようになったことで、もろくも裏切られた。ネット上だけではなく、この現実社会でも、多くのアイヌが結婚差別などの古典的な差別にいまなお苦しんでおり、実は私自身や私の家族もその当事者であることで、輪郭をはっきりさせ始めた。

アイヌ差別が表面では見えなくなっていても、実はずっとこの社会に脈々と受け継がれていることを私は実感できていなかったので、運動が十分とは言いがたかった。

この私の罪悪感は、私にアイヌであることの意味を改めて考え直させた。

アイヌであるということは先祖の思いや行ないを知ることだけではなく、歴史や社会から貶められてきた自分たちの尊厳を奪い返すように行動することではないか、と思うに至った。またアイヌであることは、歴史修正主義者が他民族を否定し侮辱する場合であっても、自分に対して行なわれるもののように痛みを感じるという当事者性を持つことでもある。

今年幸いにも市民団体の働きかけと白熱した与野党協議によって、通称ヘイトスピーチ解消法が制定された。本法はさまざまに問題が指摘されているが、国会審議の過程や付帯決議の内容などからわかる通り、ネット上の差別への対応や、調査の可能性など発展の余地がある。今後はこの法律をさらに人種差別撤廃条約の精神に近づけるための運動が必要になるだろう。

次の世代により良い世の中を引き継ぐ責任は、社会を作るマジョリティにこそ大きいが、同時にそれを当事者性という痛みで知るわれわれマイノリティにもある。