金子マーティン(かねこまーてぃん)
日本女子大学教授、IMADR事務局次長
現在、ロマ民族は世界中ほとんどの国々で暮らしているが、ヨーロッパからオーストラリアに移住し、そこで人権活動を展開するロマたちがいることを知ったので訪ねた。以下はその報告である。
1770年からニューサウスウェールズ(オーストラリア東南部)を植民地化した大英帝国はそこを犯罪者の流刑地にしたが、羊一頭を盗んだ罪状でオーストラリアへ追放となり、1790年に到着したラザルス・スカンプがオーストラリア最初のロムだという[1]。それから約1世紀後の1898年6月、それまで暮らしてきたギリシャ中部テッサリア地方の村から追放された26人のロマが南部オーストラリアのアデレード港に到着したが、その一団を受け入れる町はどこにもなく、新聞はそれらロマの放浪を1899年1月まで報道したが、その後どうなったかは詳らかでない。このギリシャ・ロマは1901年制定の人種差別的「移民制限法」と1973年までつづいた「白豪主義」の遠因をなしたといわれる[2]。
第二次大戦後は主に東ヨーロッパ諸国出身のロマがオーストラリアへ移住した。オーストラリアの国勢調査には「血統」という項目があり、それに「ロマ/ジプシー」も含まれる。2006年度調査のロマ人口は658人、2011年度調査で776人まで増えた[3]。だが、ほとんどのロマはその出自を隠しているため、公表された統計数字は実数からほど遠い。現在のオーストラリアにおけるロマ人口は2万5千人ほどと推定される[4]。
オーストラリア東海岸の都市ブリスベーンに「クイーンズランド・ロマ・スィンティ共同体協会(Romani Sinti Community Organisation of Queensland)」というロマ組織がある。2004年にオーストラリアへ移住したドイツ出身のスィンティ女性イヴォンヌ・スリーが2006年に立ち上げた。祖母で育ての親でもあったエルザが語った家族史をイヴォンヌは2005年に英語で発表した[5]。以下がその要旨である。
スィンティの家庭で1871年に生まれたアウグストは幼児のとき親から暴力的に引き離され、思いやりに欠ける多数派ドイツ人の養父母にあずけられた。そのような非道なことが帝政時代(1871~1918)のドイツで実行されたとしても不思議でないだろう。ドイツ帝国初代首相のビスマルクは厳しい「ジプシー法」を制定した。外国籍の「ジプシー」の国外追放を指示し、ドイツ国籍のロマやスィンティに対しても1886年7月から厳しい取り締まりを実行させた。たとえば、「学齢期にあるジプシーの子は親から引き離して福祉局に引き渡すべき」と命じた[6]。アウグストはイヴォンヌの曾祖父である。
15歳になったアウグストは養父母のところから逃げ出し、数年後に多数派ドイツ人のエリーザベットと結婚、8人の実子を儲け、フレディーを養子として引き取った。フレディーの母親はスィンティ出身だったが、フレディーが幼いとき病死した。1926年に生まれたフレディーはろうあ者で足も不自由な子どもだった。ナチスが政権を掌握し、第二次世界大戦が勃発した翌年、障害児のフレディーはナチス兵によって連れ去られ、障害者施設に収容された。エリーザベットは毎週フレディーを訪ねることが許されたが、見舞いにいったある日、「フレディーは病死しました」と告げられた。
ナチスは1939年9月からいわゆる「T4作戦」(安楽死政策)を実行、「第三帝国」内6カ所に設けられた「安楽死施設」で7万人を上回る障害者を「安楽死」させた。イヴォンヌの親族でナチス時代に殺された犠牲者はフレディーひとりである。
アウグストとエリーザベットの長女エルザがイヴォンヌの祖母で育ての親だが、そのエルザも多数派ドイツ人のウィッリと結婚、ヘッラなど3人の娘を生んだ。
イヴォンヌが著した家族史から明らかにならないこと、たとえばイヴォンヌの母親がだれなのかなどもあったため、直接イヴォンヌから話を聞いた。
ウィッリとエルザの長女ヘッラがシュラーク姓の多数派ドイツ人と結婚、イヴォンヌはその夫妻の1966年に生まれた娘である。1970年代から母親ヘッラが妄想症で入退院を繰り返したため、イヴォンヌはドイツ南西部バーデン・ウュルテンベルク州のプロッヒンゲンという町で祖母のエルザに育てられた。18歳になったとき、イギリスへ渡り、ロンドンでオーペア(語学を学ぶ目的の無給家事手伝い人)として働いたという。数年後、イギリスでアングロサックソン系オーストラリア人デイヴと結婚、娘ひとりとふたりの息子がいる。
「クイーンズランド・ロマ・スィンティ共同体協会」の会長はイヴォンヌ、副会長は長女イヴ、夫デイヴが会計でマケドニア・ロマの役員や会員もいるが、「クイーンズランド・ロマ・スィンティ共同体協会」はスリー家主体の組織といえる。
複数の下部集団から構成されるロマ民族のそれぞれのグループは、なかなか連帯できないという欠点がある。「スィンティの女性がロマたちをまとめるのは大変じゃないですか?」と聞いた。「マケドニア、セルビア、アルバニア、トルコやイギリスなど出身地がばらばらなうえ、所属するロマ・グループも異なるロマたちは仲たがいばかりするのでとても骨が折れます」とイヴォンヌはため息をついた。そのため、自分たちの組織はむしろ多数派オーストラリア人の啓発に力を注いでいるという。「多くの人がジプシーに対して抱きつづけるイメージ、ジプシーは盗み癖のある文化を持たない集団などの誤ったステレオタイプを修正する必要があります。」そのため、イヴォンヌが会長を務めるロマ組織はロマ民族の歴史と文化にかんする展示会を博物館や学校などで開催している。
東海岸のブリスベーンへ引っ越すまえ、スリー家はブリスベーンの北方へ1,700キロほどのケアンズで暮らしたが、同地にある北グイーンズランド博物館の分館「熱帯クイーンズランド博物館」で、「反ステレオタイプのロマ展示会(”The Anti-Stereotyping Romani Exhibition”)」という展示会を2007年に開催した。当初、その展示会は2カ月間の開催予定だったが、好評だったので半年に延長された。その2年後、オーストラリア大陸を3週間横断して、ケアンズから7,000キロ離れたオーストラリア南西部のパースでも同じ展示会を開催した。その展示会はわずか3日間と短かったが、やはり好評だったそうだ。パースはマケドニアやトルコの出身でイスラム教徒であるロマたちが大勢住んでいる街である。
広大なオーストラリア大陸で暮らすロマ民族構成員は決して多くないが、いくつかの組織が結成されており、それらの組織の呼びかけで毎年オーストラリアのもっとも東にある町、パイロンベイでオーストラリア全土からロマが結集する数日間の集会が催される。もちろん「クイーンズランド・ロマ・スィンティ共同体協会」も呼びかけ団体である。毎年、4月8日の「国際ロマ・デー」もオーストラリア各地で盛大に祝されるという。
直接イヴォンヌとその家族に会い、彼女もその子どもたちもロマとしての強いアイデンティティを持っていることが確認できた。イヴォンヌはとりわけロム女性としての誇りが高く、組織のホームページで「ロマ女性であることを誇りにせよ(Be Proud to be a Roma Women)」と呼びかけている[7]。ロム人権運動の女性活動家でもある8人のロマ女性の詩集『水のように』は、イヴォンヌ作の詩5篇を載せている[8]。世界各地のロマ活動家たちとの連携を絶やさないイヴォンヌは、ロマ社会で頼もしい活動家として認められている。
[1] Donald Kenrick, The A to Z of the Gypsies (Romanies), The Scarecrow Press, Lanham, 2010, p. 11.
[2] “Gypsies from Greece”, Neos Kosmos, 27. June 2012.
[3] Department of Immigration and Border Protection, The People of Australia.
[4] Yvonne Slee, Australia and Romanies, CC Press, Coffs Harbour, 2011, p. 37.
[5] Yvonne Slee, Torn Away, Forever, Amber Press, Aspley, 2005.
[6] Marion Bonillo, ?Zigeunerpolitik“ im Deutschen Kaiserreich 1871-1918, Peter Lang, Frankfurt, 2001, p. 105.
[7] http://www.sintiromanicommunity.org/
[8] Hedina Tahirović Sijerćić (ed.), Like Water ? Sar o Paj, Brisbane, Amber Press, 2010, pp. 35-40.