在日コリアン生徒1400人アンケートからみえたこと

中村 一成(なかむらいるそん)

ジャーナリスト

 

龍谷大学人権問題研究委員会の助成を受けたプロジェクト「ヘイトスピーチによる被害実態調査と人間の尊厳の保障」(代表・金尚均)の一員として昨年、コリアにルーツ(国籍に関係なく)を持つ高級学校生ら1400人余を対象に、ヘイト被害調査を実施した。

対象は1483人、全国の朝鮮学校9校の生徒1379人、民族系学校A校33人、コリア系国際学校B校33人、日本の公・私立学校(非・民族学校)に通う生徒38人(コリアルーツ8人、それ以外のルーツ30人)。朝鮮学校中、67人は中級部の生徒だが(高校生対象との趣旨が正確に伝わっていなかったため)、それ以外は全員が高級学校、高校生である。

この世代を選んだのは、日本のヘイトスピーチ問題の原点「京都朝鮮学校襲撃事件」(2009~10年)で、三度の差別街宣がなされた時期、初級学校生、小学生だったことである。京都の高等部生(73名)には直接攻撃に遭遇した者も少なくない。直に体験していなくとも、「同じ朝鮮学校」に通っている子どもや、韓国系、あるいは日本の公・私立の学校に通っていても「同じコリアにルーツを持つ」子どもたちが、家庭や学校、あるいはメディアで見知ったヘイトスピーチをどう感じ、いかなる心理的影響を受けているかを明らかにしたかった。回答者は男性739人で女性は738人とほぼ同数だった。

内容をごくかい摘んで紹介したい。ヘイトへスピーチへの認知度は当事者ならではの高さを示した。「京都事件」については87%、「日本各地でのコリアンに対する排外、攻撃デモ」でも85.2%が知っている。知ってどう思ったかについては、京都事件、日本各地とも「怒り」が7割強で、「恐怖」が51.2%(京都事件)、45.6%(日本各地)と続く。

安心・安全が保障され、自尊感情を育むはずの学校で、実に半数もの子どもが恐怖を抱いていたのである。また「恐怖」「怒り」を選んだ者に、「それはなぜか」を複数回答で問うたところ、「人間として平等に扱われていない」との回答が73.7%と、「気持ちが悪かった」(40.9%)や「関東大震災のように朝鮮人が迫害されるのではないかと思った」(14.4%)を大きく上回った。人間を人間以下の存在に貶める――究極的には殺しても構わない対象とする――ヘイトスピーチの害悪が被害者の認識に於いても顕現した。

注目すべきは男女差である。京都事件、日本各地でのデモ街宣、いずれの場合も、「恐怖」を感じたとの回答は女性が男性の倍に達した。また、「人間として平等に扱われていない」という回答も女性79.8%で、男性の67.4%を10ポイント以上上回っている。全般的に、「多文化共生は進んでいるか」や「差別を感じるか」など、身の回りに存在する潜在的リスクに繋がる問いでは、女性がシビアな認識を示すことが多かった。エスニックというマイノリティ性に、ジェンダーというマイノリティ性が付加された結果だろう。

また、「ヘイトスピーチ問題の解決に必要なこと」との問いでは、全学校平均で95.7%が何らかの立法措置を求めた。最も高いのは朝鮮学校の96.5%である。これは、幾度もヘイトデモの対象とされた旧京都朝鮮第一初級学校や朝鮮大学校に連なる集団であることなどが大きな理由だろうが、圧倒的多数が規制を求めるのは朝鮮学校だけではない。A校も81.8%、B校でも87.9%に達した。また、公・私立学校に通う「コリアルーツの生徒」でも8人中7人が「必要」、「他ルーツ」の生徒でも83.3%がここに該当した。

東京都新宿区と京都、仙台両市で20歳以上の日本国民を対象にした「ヘイト・スピーチと外国人に関する有権者の意識」調査(2015年)では、「ヘイトスピーチは法で規制すべきか?『表現の自由』か?」の設問(338人が回答)に対し、「規制すべき」と回答した人の割合は47.6%にとどまった(ちなみに「表現の自由」は23.4%)。二倍もの差からは、非当事者と当事者間における不安、恐怖の非対称性が読み取れるだろう。

学校を問わず、攻撃対象の属性集団の一員にとって、ヘイトスピーチ問題は教育や啓発のみで対処できる問題ではない。当事者にとってヘイトスピーチは、即時的な暴力であり、法で禁止すべき危険な現象なのである。法規制に慎重、反対を主張する者たちは、「表現の自由」や「濫用の危険」で思考停止するのではなく、当事者のこの危機感に向き合うべきだ。問題は「机上の二択」ではなく、社会の同じ成員、しかも子どもたちが感じている「恐怖」や「不安」をどう減じ、解消するか、マジョリティが空気や水のように享受している「安心・安全」を彼・彼女らに保障するかだと思う。差別の被害は当事者でなければ「分からない」のは、ある意味仕方がない。その断絶を想像力で架橋するためにも、被害の実態を可視化し、向き合う努力が必要だ。過日、法務省は初めて、外部委託によるヘイトスピーチの実態調査を行い、結果を公表した。今後も継続的かつ綿密な実態調査が不可欠だろう。

さて本調査の肝は、排外・差別デモに参加する者たちに対する回答者の認識である。選択肢は「許せない、絶対に理解しあえない」「許せないけど、同じ社会に生きる人間だからいつか分かり合える」「無視する・放っておくべき」の三つである。ここでは朝鮮学校生とそれ以外との間に明確な差が現れた。朝鮮学校生(全国)の「許せない、絶対に理解し合えない」38.7%(534人)は、公・私立学校における「他ルーツ」を除く他集団の倍、あるいは倍以上の数値を記録した。これ自体は旧京都朝鮮第一初級や朝鮮大学校への度重なる街宣への怒りや不安や恐怖が、他集団より強いためと容易に推察できる。

その上で注目すべきは、朝鮮学校生の「許せない、絶対に理解しあえない」の数値と、「許せないけど同じ社会に生きる人間だからいつか分かり合える」39.6%(546人)が、ほぼ同数になったことである。ヘイトスピーチの危険性に対する認識が低いのでは決してない。「無視する・放っておくべき」は他集団より7.4~13・5%も低い16.8%(231人)に留まっている。自由記述に複数名みられた「いつか殺される」など、生命に及ぶ危険を記した記述回答も併せて考えると、「朝鮮人に対する明確な悪意や憎悪」に基づく差別の扇動(ヘイトスピーチ)は、放置すればどんどん過激化し、やがて自身がこの社会で存在することそれ自体を脅かすものであるとの認識を多くが持っている。その上で相反する回答が拮抗しているのだ。

なぜか?朝鮮学校で、日本人は同じ社会で生きるパートナーとして位置付けられていることや、家庭教育の影響もあるだろう(京都事件でも、怒りを露わにする子どもに「同じレベルになってはダメ」と言い聞かせている保護者や、「許せないけど、どこかで分かり合いたい」「悔い改める姿をみたい」として、裁判傍聴を重ねる大人は何人もいた)。

この拮抗を推察する上でヒントになったのは、単数回答形式の質問にもかかわらず「許せない」と「いつか分かり合える」という真逆の項目を双方選んだ者が数人いたことだ。思わず二つにチェックを入れる生徒の心証は、裁判傍聴を重ねる大人たちの口を衝く思いと共通する。二つの項目は、全体を二分する意見であるというよりは、生徒たち個々人の内面で激しくせめぎ合う、アンビヴァレント(同じ物事に対して、相反する感情を同時に抱くこと)な感情を反映しているようにも思える。

それは最後の質問「共生社会に向けて自分がしたいこと、すべきこと」に寄せられた記述からも読み取れる。「共生社会の実現は、差別主義者を日本から一人残らず消し去らない限り無理」「死刑にする」など、物理的な排除に「解決」を見出す回答は数人にとどまる一方で、レイシストをも含めたマジョリティとの「交流」や

「話し合い」に展望を見出す者が多かった。交流してもレイシストが変わらないならば、交流に意味はない。交流や対話を求めるのは、それによってレイシストを含むマジョリティが変わりうるという潜在的な期待があるからだろう。これは「希望」で片づけるわけにはいかないマイノリティの実存に関わっているように思う。マジョリティはマイノリティを無視して生きていくことが可能だが(もちろんそれは民主主義、それどころか社会と呼ぶにも足らないいびつな世界である)、常に「同化か排除」にさらされるマイノリティはマジョリティを無視しては生きられない。「所詮ここはアウェー」「外国人だから」などとあきらめ、マジョリティの中に埋没したり、あるいは差別を甘受する生き方を拒むなら、残された数少ない「希望」は、「マジョリティが変わり得ること」と、「規範の確立(法整備)」である。

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