安田浩一著、朝日新聞出版、2016年6月20日発売予定
定価1,600円+税
安田浩一(やすだ こういち)ジャーナリスト
「普天間基地は田んぼのなかにあった。そこに商売になるということで人が住みだした」「沖縄の新聞はつぶさないといけない」──。
この発言が飛び出したのは、ちょうど1年前のことである。安倍晋三首相に近い自民党の若手国会議員ら約40人が、党本部で憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」を開催した。その席上、講師役を務めた人気作家・百田尚樹氏の口から発せられたのが前出の言葉である。
この会合では他にも暴言、暴論の類が連発された。出席議員のなかには百田氏に同調し、「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働きかけてほしい」と声を上げる者もいた。
何かとてつもなくイヤなものを感じた。腐臭を伴った汚泥が身体中にまとわりつくような気持ち悪さと、集団リンチを目にしたときのような後味の悪さを思い、気が滅入った。
ひとつの風景がよみがえる。2013年1月29日。沖縄の首長や県議たちが東京・日比谷公園に集まり、オスプレイ配備反対の「建白書」を政府に届けるデモをおこなったときのことだ。隊列が銀座に差しかかったとき、沿道に陣取った者たちからデモ隊に向けて飛ばされたのは罵声と怒声、そして嘲笑だった。
「非国民」「売国奴」「中国のスパイ」「日本から出ていけ」──。日章旗を手にした在特会(在日特権を許さない市民の会)などの集団が、まさに「反沖感情」を露骨にぶちまけたのである。ヘイトスピーチの問題を取材してきた私は、デモ隊を小馬鹿にしたように打ち振られる日章旗を見ながら、沖縄もまた排他と差別の気分に満ちた醜悪な攻撃にさらされている現実に愕然とした。沖縄が敵として認知され、叩かれる──よりわかりやすい形で沖縄は差別の回路に組み込まれていた。
百田氏や自民党議員の発言に接し、あらためて確信した。ヘイトスピーチと沖縄バッシングは地下茎で結ばれている。
不均衡で不平等な本土との力関係のなかで「弾除け」の役割だけを強いられてきたのが沖縄だった。いまや一部の日本人からは「売国奴」扱いされるばかりか、「同胞」とさえ思われていない。
さらに、沖縄バッシングの仕掛けとして用意されたのが報道圧力である。
沖縄の新聞は偏向している、つぶせ──。
偏向報道批判は沖縄攻撃の亜流であり、容易に国へ従うことのない沖縄への苛立ちでもある。おそらく、標的としてもっともわかりやすい存在として沖縄の新聞がやり玉に挙げられているのだろう。実際、沖縄の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)の紙面は、どこか取り澄ましたような全国紙とは表情が違う。両論併記で”逃げ道”をつくるような手法は使わず、自らの主張を示すことで、ぶれることのない軸足を示している。たとえば辺野古新基地建設に明確に反対し、沖縄の過重な基地負担に対しても、政府批判を躊躇うことはない。権力発表の垂れ流しを頑として拒否する姿勢は、新聞のあるべき姿を表しているようでもある。だから、そんな沖縄の新聞の作り手たちに会いたいと思った。
東京と沖縄を何度、往復したことだろう。辺野古の緊迫した現場で、騒々しい編集局の中で、怪しげな路地裏の飲み屋で、私はひたすら記者たちの言葉に耳を傾けた。
聞こえてきたのは、勇ましく、気概に満ちた声ではない。新人記者も、ベテラン記者も、編集幹部も、誰もが迷い、考え、戸惑い、そして苦しんでいた。そのなかで沖縄の現状を伝えるために悪戦苦闘を重ねていた。
「自分を突き動かしているのは地元世論です。言ってみれば、沖縄の現状が、記者を、新聞を、育てている」
ある記者は私にそう告げた。
地域で生きる、地域のために報じる記者の矜持が垣間見える。
「偏向批判」に真正面から対峙する、沖縄の記者たちのありのままの姿を、本書では描いたつもりだ。彼ら、彼女らの、そして沖縄で生きる人々の息遣いを、ぜひ、感じてほしい。