講師:川人博(弁護士、川人法律事務所、過労死弁護団全国連絡会議幹事長)
科学技術の発達は、人類の生活向上にとって大切である。しかし、このところの世界遺産報道は、日本の歴史の別な側面を忘れていないだろうか。
『ちょっとお待ち、思案に余らば母の家』
これは市川房枝さんが支援した慈善団体「母の家」が諏訪湖湖畔に建てた立札である。母の家は工女の自殺防止のために湖畔を巡回した。1926年頃のことである。
諏訪湖湖畔の岡谷市は明治・大正・昭和のはじめにかけて世界一の生糸輸出国の中枢的役割を担った。しかしあまりにも過酷な労働環境のため、自殺が相次ぎ、大正時代には福田徳三博士の「湖水に飛び込む工女の亡骸で諏訪湖が浅くなった」という発言が社会問題になるほどだった。
戦後の新憲法の下で1947年、労働基準法が制定され、1日8時間労働の原則となるが、現実はサービス残業による非合法的な長時間労働や、労使協定(36協定)による長時間労働の合法化などにより、日本的経営システムの中に長時間労働が組み込まれていった。
1980年代後半、働く人の脳心臓疾患の突然死が頻発し、1988年に「過労死110番」が発足した。1990年代前半にバブル経済が崩壊し、日本は長期にわたる不況となり、「生き残り」をキーワードとして長時間労働による過労、雇用不安によるストレスが職場に広がり、精神疾患や自殺が増加した。2014年の警察庁(内閣府)の統計によれば、勤務問題が原因・動機の自殺は2,227件で、1日に6人が死亡していることになる。一方、自殺の労災申請件数213件のうち労災認定は99件で、99÷2,227 = 4.45%。つまり、厚生労働省が労災保険の適用を認めたのは、警察庁(内閣府)統計の件数のうち約4.5%にすぎない。
現代日本の過労死・過労自殺の深刻な実態を改善するために、2014年6月、過労死等防止対策推進法(過労死防止法)が国会で成立し、過労死を防止する総合的政策の実施は、「国の責務」と明記された。
また2015年7月には「過労死等の防止のための対策に関する大綱(過労死防止大綱)」が閣議決定された。平成32年までに週労働時間60時間以上の雇用者の割合を5%以下とする目標を踏まえて、週労働時間が60時間以上の労働者をなくすよう努めること、長時間労働を削減するためには、労働時間等設定改善指針に規定された各取組を行なうことが効果的であるということを、周知・啓発を行なうとするほか、職場におけるメンタルヘルスケア、パワーハラスメントの予防に関しても触れている。
一方使用者の安全配慮義務であるが、大変深刻なことに近年20代の女性の過労死が増えてきている。またうつ病に罹災するケースも多い。職場におけるメンタルヘルス対策の遅れであると言わざるを得ない。
従業員に精神疾患の兆候が表れたとき、使用者は、・ただちに休暇の取得を促す、・業務の軽減をはかる、・労働環境(業務量・上司との人間関係等)の改善、などといった措置をとらなくてはならない。
精神疾患患者に対する会社の対応の遅さが、問題を深刻化させる。初期対応が遅れ、重度の精神疾患に陥った場合には、その後療養・休職を保証しても問題解決が極めて困難である。そして最悪の事態を招くこともしばしば発生する。
また、退職の自由も保障されなければならない。退職届の提出や退職の申し出があったにもかかわらず、これを上司や経営者が拒絶して、やむなく従業員が働き続けた結果、死亡に至る例が多い。特に精神疾患の場合、視野が大変狭くなっており、死ぬ以外の選択肢を思いつかない場合が多い。
厚生労働省のワーキンググループ(平成24年)によると職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいう。
カナダでは一般的にハラスメントを構成するものを以下のようにガイドラインとして定めている。
・粗暴な(下品な、攻撃的な)言葉を繰り返す(例:身体的特徴や外見をことさらあげつらうこと、悪口、侮蔑的言動)
・性差別・人種差別、その他攻撃的な絵やポスターを貼りだしたり、カナダ人権法の下で違法とされる11の根拠のいずれかに関係する電子メールを送ったりすること
・通常業務の一部ではない意味のない仕事や不潔な仕事に、単独で繰り返し従事させること
・脅迫したり報復したりすること(職場における非倫理的な行動や違法な行動に気づき、懸念を表明した労働者に対する場合も含む)
・望まれない交際(性的な意味合いを含んでいたり男女間のいちゃつきなど)を部下に申し出ること
・望まれない性的関係を持とうとすること
ハラスメントのない職場づくりのためには、まず何よりも経営者・役員・上級管理者の経営思想が大切である。働く人間の尊厳は数字・利益を理由に決して犠牲にしてはならない。
次に役員・管理監督者の責任と役割であるが、職場で発生しているパワハラの実態を察知するための手段を常に講じていなければならない。
また「パワハラ認定」にあたっては丁寧な調査と予断を排した分析が必要であり常設の第三者による調査分析機関の設置も検討すべきである。
次に、健康経営の意義であるが、従業員の健康増進は、医療費負担適正化、事業リスクの低減、労働生産性の向上、企業実績の向上、職場への優秀な人材の定着、どにつながり、企業イメージの向上、従業員満足度の向上をもたらす。また、過労死をなくし健康な職場を実現することは、日本社会の健全な発展をもたらす。
最後に過労死と労働法制の問題である。過労死に至る長時間労働の3つのパターンは、
1) 月80時間以上を「合法化」する36協定
2) 長時間「サービス残業」→記録されない違法残業
3) みなし労働型など、規制撤廃型
であり、このうち2)が過労死事例として一番多い。
今回の法案、いわゆる「残業代ゼロ法案」が成立すれば、第2類型(サービス残業型)の多くの労働者が第3類型に移される。すなわち、高度プロフェッショナル型雇用形態の創設、または企画業務型裁量労働制の拡張によって、サービス残業=違法残業が「合法化」され、よりいっそう長時間労働に拍車がかかる危険が大きい。
また過労死が発生しても、労働時間の証明が困難なために現在以上に労災認定を受けることが困難になる危険性がある。特に若者への悪影響が大きい。現在、残業無制限によく使われる「管理監督者」は、新人・若年労働者にはなかなか適用しにくいものである。しかし今回の法改正により、若者でも高度プロフェッショナル、または裁量労働制に組み込まれやすくなり、残業規制が撤廃される危険が大きい。
さらにホワイトカラーは、現業労働者(ブルーカラー)以上に労働時間規制が必要である。会社が業務量を決定する以上、ホワイトカラーには形式的な労働形態の「裁量」が与えられたとしても、真の意味での裁量はありえない。
ホワイトカラーを過重労働から守るためには、労働時間規制しか方法がない。工場で働く労働者であれば、工場の機械が止まれば仕事はできないが、ホワイトカラーはいつでもどこでも仕事をすることが可能である。
労働時間の規制を一切撤廃するこの「残業代ゼロ法案」は、「過労死促進法」であり、過労死防止法を有効に活用して、歴史の逆流に歯止めをかけ、労働時間の規制撤廃ではなく、「労働時間の規制強化」を実現していくことが求められる。