移住女性に対する暴力―DV被害者の証言

移住女性のためのエンパワメントセンター 「カラカサン」

1997年、チェリー・リン・パンギリナンはフィリピン、セブ市にある日系の自動車部品工場で品質管理エンジニアとして働いていたとき、日本から出向してきていた元夫と知り合った。1年後、二人はセブで結婚式を挙げ、その5か月後、日本に移り住んだ。当初は夫の父親との同居であったが、娘を出産したあとは家を出て、3人の新しい生活が始まった。
 両親や妹たちとの賑やかで幸せな暮し、やり甲斐のある挑戦的な職場での生活。それが一変して、日本でのチェリーの生活は、家事と子育てに追われ、出張で頻繁に家を空ける夫をただ待つだけの日々となった。しかし、幸せな家庭を築くことに懸命であった彼女は、そうした変化も気にならなかった。それからしばらくして、些細なことですぐにかっとなる夫のことが気になり始めた。彼女と夫は子どもの育児に関してよくぶつかった。
 日本での生活も4年目に入った頃、彼女は自分が夫に虐待を受けていると認識するようになった。彼女の前で、突然理由もなく怒鳴りだしたり、会社にいるフィリピン人の社員を罵るような暴言を吐いた。毎晩帰宅は遅く、時にはワイシャツに口紅がついていたり、上着に長い髪の毛がついていた。チェリーはとても苦しんだ。
 ふたりはしょっちゅう喧嘩をするようになった。喧嘩になれば夫は周囲にある物を投げつけた。それが彼女にあたって怪我をすることもあった。夫はだんだんと感情をコントロールできなくなっていった。夫の言うことに反対せず従ったときだけ、おとなしくなった。幸せな家庭、父親のいない娘、娘を一人で育てることの難しさ、夫の支えのない一人の生活、そうしたことを考えると、チェリーにとって離婚は現実的ではなかった。さらに、クリスチャンであるフィリピン人として離婚は許されなかった。
 2004年、姉が重篤な病にかかり、チェリーは娘を連れて急きょセブの家に一時帰国することにした。帰国前夜、夫はまたも暴力をふるい、彼女はあざだらけになった。それまでセブの家族には日本での辛い生活を隠してきた。しかしセブに帰ればそれ以上隠すことはできなかった。家族はチェリーの顔のあざに気づき、つらそうに歩く姿にショックを受けた。それ以上我慢することはない、別れなさいという家族の勧めを聞いて、彼女はほっとした。日本に帰って夫と向き合える気力と体力を取り戻すまで、セブの実家で休養することにした。
 ほぼ1年後、彼女は娘を連れて日本に帰った。自分の設計で建った新築の家にたどり着いた彼女を待ち受けていたのは、見知らぬ女性であった。夫とそこで生活を始めていたその女性は、家に入るなと言った。さらに女性は夫の指示で警察に電話をかけ、彼女を家から追い出そうとした。
 チェリーは自分に支援を提供してくれるNGOを探した。日本語を話すことも読むこともできなかったため、夫との離婚の協議や、慰謝料や娘の養育費の交渉に付き添ってくれる人が必要であった。
徐々にチェリーは自信を取り戻し、元気になり、英語学校の講師の仕事を手にし、シングルマザーとして娘との生活を始めた。

懸念事項:
チェリー・リンのケースのように、日本に住む移住女性は、近親者、コミュニティ、職場、さらには国からの差別と暴力に直面している。民族やジェンダーを理由に、夫やボーイフレンドから差別をうけ、暴力をふるわれる。彼らは、「日本人だから、男性だから、私が一番偉い」と無意識のうちに考えている。カタコトの日本語しか話すことができず、生活スタイルも異なる移住女性たちは、周囲から劣っていると見なされ、地域社会や職場において差別され孤立させられる。
2012年7月に改定入管法が施行されて以降、家庭で暴力にさらされている移住女性は日本人の夫からますます逃げることができなくなった。女性の在留資格を保障できるかどうかは夫にかかっているからだ。たとえ夫からうまく逃げることができたとしても、改定法に基づき、女性は住居地変更を届け出なくてはならず、在留許可を失う危険性が生じる。当時、チェリー・リンは夫の虐待により混乱し無力にさせられていた。姉の病状が気になり、住居地変更のことは優先事項として頭に浮かんでこなかった。