金子マーティン(かねこまーてぃん)
日本女子大学教授、IMADR事務局次長
馬肉は食すると汚れるロマ民族
食することが禁忌となっているものが各文化圏にあるが、ロマ民族の場合それは馬肉である。ロマにとって馬は移動手段、あるいは馬喰のロマにとって商品として大切である。ところが、シュトカで「馬の臓モツ煮込みを一緒に食べた」との記述が日本人フォトジャーナリストの本にあった(木村聡『千年の旅の民』、新泉社、2010年)。ロマ民族についての知識がある程度あれば信じがたい主張だが、その真偽を確かめたく2011年夏にはじめてシュトカ(正式行政名はシュト・オリザリ)を訪れた。地元の人びとに「シュトカのロマは馬肉を食べるのですか」と申し訳ない気分で問うた。そこに居合わせた10人ほどの全員が「それは絶対にありえない」との返答。だが、問題の書の副題は「“ジプシー”のゆくえ」であり、日本人読者が「ジプシーは馬肉を食べる」と思い込んでも不思議でない。ロマ民族に言及する著述者は、偏見を増幅するような記述を避けるべきだろう。
とにかく、それ以来毎年シュトカを訪れている。地元ロマが中心となって同市で活動するNGO〈アンブレラ〉(www.ambrela.org.mk)に大きな期待をかけているからである。
〈ロマ統合の10年〉という試み
2005年に始まった〈ロマ統合の10年〉というプロジェクトは今年が最終年にあたる。世界銀行、国連開発計画、ヨーロッパ評議会、開放社会基金(Open Society Foundation)などの出資団体からこのプロジェクトに大金が注ぎ込まれたが、大きな成果があった兆しは見えない。殺傷事件をも含むロマを標的にした差別事象も減少していなければ、環境改善も部分的にしか進んでいない。ある程度の成果が上がったのはロマの子どもたちの教育問題だが、それとて国際機関の手柄というよりも、各国における〈アンブレラ〉のようなロマ自身による自助的活動に負うところが大きい。
〈ロマ統合の10年・ウオッチ〉は2008年に〈ロマ統合の10年〉のプロジェクトに参加する東ヨーロッパ9カ国の成績を公表した。最高得点は4点だが、2005/6年のマケドニアの順位は1.37点で第7位、2007年は2.08点で第3位まで上昇した(Max Matter, Nirgendwo erwünscht [歓迎される場がどこにもなく]、Wochenschau Verlag, Schwalbach, 2015)。
ヨーロッパ会議はロマ差別を軽減するとの目的で〈ドスタ〉と称するキャンペーンを開始した。セルボ・クロアティア語でドスタ(Dosta)は「もう結構」を意味する。つまり、「ロマ差別お断り」の意味である。2006/7年当時、マケドニアをも含む東ヨーロッパの5 カ国がそのプロジェクトに参加していた。だが、現実は「ロマ差別の軽減」という目標からほど遠い。たとえば、マケドニアで使用の小学校4年生用「国語」教科書に「ツィガニ(Cigani)」というロマに対する蔑称が掲載されていることが2013年4月に発覚した。このようにロマ差別は各国において脈々と続行しており、〈アンブレラ〉のようなロマ独自の自助活動は極めて重要である。
〈ロマ統合の10年〉の成果が乏しい現実をようやく直視したのだろう、ヨーロッパ委員会は2011年4月に「2020年までのロマ統合のための国家的戦略」を採決、ヨーロッパ連合(EU)は加盟27カ国(当時)に対してそれぞれの国が2012年3月までに「ロマ統合のための戦略」を公表するよう指示した。また、ヨーロッパ評議会は2013年12月に「ロマ統合のための効果的対策の勧め」を公表、EU加盟28カ国が全会一致でそれを承認した。しかし、「ロマの統合」というヨーロッパ社会での平和共存を現実するためにも重要な課題に、EU加盟各国が真摯に向かい合っているという確証を得るのは困難である。
NGO〈アンブレラ〉の諸活動
どこのNGOであろうと、慢性的資金不足や活動家不足にあえいでいるのが常だろう。〈アンブレラ〉の場合もその資金出資者の有無によって事務所の規模が移り変わり、活動内容も縮小されるか継続できなくなっている。〈アンブレラ〉の1年間の活動資金(家賃、電気・水道料金、事務費など)は5千ユーロ(65万円)ほどだそうだが、今回の事務所兼教室の建物は以前と比べて立派だった。
中心的活動家のラティフェ・シコヴスカさん(Ljative Sikovska)に〈アンブレラ〉の活動や経済状態について語ってもらった。もともとシュトカで暮らしていたものの、現在は廃品回収などをしながらスコピエ市内でホームレス生活をしている80から90のロマ家族があるが、それら極貧家族の子どもたちの救援活動に取り組んでいる。継続している以前からの活動として、出生証明書などさまざまな公的文書が欠落・不足しているロマのため、行政交渉をしてそれら証明書類を発行させている。また、「おもちゃ図書館」も続けている。ロマ統合に貢献した活動が認められた〈アンブレラ〉は、2014年にヨーロッパ委員会から1万4千ユーロの賞金を得た。その結果、以前よりも立派な建物に引っ越せた。
昨年9月から今年8月までの1年間だけ活動資金が開放社会基金から提供される新たなプロジェクトもある。午前9時から12時までと午後13時から16時までそれぞれ20人、計40人ほどの4歳から5歳までの貧しい家庭の子どもたちの就学前教育プロジェクトがそれだ。シュトカにある市立の〈4月8日幼稚園〉で使用されている言語はマケドニア語のみだが、〈アンブレラ〉の就学前教育はマケドニア語とロマニ語の二言語教育である。シュトカのロマ家庭で使われる日常語はロマニ語だが、子どもたちが6歳で入学すると小学校の授業はマケドニア語。マケドニア語が十分に理解できず、学業不振に陥る子どもも少なくないという。心配顔でラティフェさんはこの就学前教育が今年9月以降も継続できるかどうか、それは未定といった。
〈アンブレラ〉の就学前教育参与観察
ホームステイした家庭の三女、5歳のアナベラちゃんも〈アンブレラ〉の就学前教育に通っているが、その活動を3日間ほど参与観察した。ひとつの教科に費やす時間は15分程度で、数字、数え方、文字、歌や遊戯、あるいは食前に手洗いをするといったような「先生」の話を、1人の男の子を除いて、子どもたち全員が椅子に腰かけておとなしく聞いていた。家庭で姉たちや弟と飛び回っているアナベラちゃんも、「先生たち」の話を静かに聞いており、この子たちは入学しても戸惑うことがないだろうと安心した。なお、午前も午後も子どもたちに軽食と飲み物が配られる。
この就学前教育の「先生」は〈アンブレラ〉の専従スタッフ、ムアレム・アブディ君(Muarem Abdi)、アイーダ・ムスタフォヴスカさん(Aida Mustafovska)、ゴルダナ・ロディッチさん(Gordana Rodic)とラティフェさんの4人が交代でやっており、2人のアシスタントがそれを手伝う。アシスタントの1人はシュトカの若いロムニ、もう1人はアメリカの平和部隊(Peace Corps)から派遣されたアメリカ人女性。
就学前教育に自分の子どもを通わせている親と〈アンブレラ〉専従スタッフとのミーティングが月に2回ある。4月8日という日付は「国際ロマ記念日」だが、子どもたちの学習成果を親に披露する学芸会が今年の4月8日に計画されていた。
〈アンブレラ〉によるこの就学前教育プロジェクトがこの9月で打ち切りになってしまえば、将来シュトカの子どもたちが社会的に上昇する機会も大幅に狭められるだろう。その結果、ロマ解放も遠退くことになる。そのため、このプロジェクトが継続されるよう、新たな出資者が見つかるよう願う。ちなみに、マケドニアの物価水準は西ヨーロッパ諸国や日本と比べれば格安である。シュトカの子どもたちの就学前教育のプロジェクトに必要な経費は、1年間に1万5千ユーロ(200万円弱)ほどとのことだった。
最後にラティフェさんは切なる願いを口にした。「〈アンブレラ〉の活動に経済支援していただける日本の企業や団体等がございましたら、連絡先をambrelaoffice@gmail.comまでお寄せください。英語の活動計画や予算案などをお送りします。」