「世界はヘイトスピーチと闘う」―元国連人種差別撤廃委員ソーンベリーさん講演報告

2014年10月、自由人権協会の招待でパトリック・ソーンベリーさん(元人種差別撤廃委員会委員、現在英国キール大学名誉教授)が来日された。東京でのシンポジウムや国会議員との意見交換のあと、大阪にお招きし、10月23日に表題の講演会をエルおおさかで開催した。参加者130人がヘイトスピーチを主題にした講演に熱心に耳を傾けた。講演の要約を以下に報告する。なお、ソーンベリーさんは人種差別撤廃委員会を代表するのではなく、個人としてさまざまな見解を述べられたことをお断りしておく。

報告:小森 恵(こもり めぐみ)
IMADR事務局次長

人種差別撤廃条約採択の背景
人種差別撤廃条約(以下、条約)は1965年12月に国連総会で採択された。その背景は複雑であるが、歴史的側面から見れば、19世紀から20世紀初頭に広がった人種理論を否定する試みであった。人種理論が植民地主義や奴隷貿易を直接生み出したわけではないが、少なくとも下支えをした。人種理論は「異なる人種がある」という考えと「優秀な人種と劣る人種がある」という2つの考え方からなり、後者は第二次世界大戦中にナチズムによるホロコーストを引き起こした。戦後採択された国連憲章と世界人権宣言は人種に基づく差別を禁止した。さらにはUNESCOなどを中心に1950~60年代には人種理論解体の試みもあった。
 採択当時、世界では植民地主義やアパルトヘイトが続いていた。同時に欧州を中心にネオナチが抬頭し始めていた。こうしたことを背景に、国連は差別と不寛容に立ち向かう文書の作成を決定し、1963年に人種差別撤廃宣言を、そして1965年に人種差別撤廃条約を採択した。起草段階には、人種差別は植民地支配下にある領土やアパルトヘイト下にある国の問題であり、自分たちの国では存在しないと主張する国が多かった。人種差別撤廃委員会(以下、委員会)が人種差別はグローバルな現象であるということを粘り強く説いてきたため、今ではこうした主張は少なくなったが、それでも「私の国に人種差別や民族的な複雑さはない」と言う国が稀にある。委員会は、国は近代国家の特長である多民族の複雑性を認めるべきであるという見解をもっている。これには、マイノリティ、先住民族およびその他関係する集団の存在を認めることも含まれる。

条約の目的
 条約はあらゆる形態の人種差別の撤廃という野心的な目標を掲げている。条約は“人種差別の形態”については具体的には挙げておらず、唯一明示されたのは第3条にあるアパルトヘイトだけである。起草段階では、反ユダヤ主義、ナチズム、ファシズムなどの言葉を入れようとする試みがあった。条約前文の主要なテーマは平等と人間の尊厳であり、これらは条約全体に大きな影響を与えている。条約自体はシンプルな構図となっており、前文のあと、人種差別の定義、特別措置、国家の義務、アパルトヘイト、憎悪・差別煽動の禁止、条約のもと保護されるべき権利、救済、教育に関する条文が続く。適用範囲として条約には“公的生活”における差別が挙げられているが、公的機関や行政に限られるものではない。私的生活(条約が及ばないもの)以外は公であるとしており、そこには、民間企業、業界団体、民間団体による公的活動における差別も条約の範囲に入る。

ヘイトスピーチと条約
 第4条は条約の目的達成における中心的役割を担っている。条約は人種思想流布や憎悪・差別の煽動に刑法を活用すべしという立場をとっている。その対象は表現活動だけではなく、それらに従事するレイシスト団体もその性質に応じて禁止することを規定している。
 条約にヘイトスピーチという言葉は使われていないが、委員会は条約自体がヘイトスピーチは何かということを示していると考えている。しかし、委員会が考えているヘイトスピーチは皆さんが考えているものより範囲は狭いかもしれない。委員会は、通常、特定のマイノリティ集団、先住民族、カースト集団、市民でない人(外国籍者)の集団へのヘイトスピ―チと、これら集団に属する女性に対して属性とジェンダーの両方に基づいて行われるヘイトスピーチを対象として考えている。委員会は女性に対する差別を扱う場合、インターセクショナリティ(交差性)という言葉を使うが、これはフェミニストの法律家から借りた用語である。さらに、保護されるべき集団のステレオタイプ化やスティグマ化の問題にも取り組んできた。
 委員会は2012年8月、人種的ヘイトスピーチに関するテーマ別討議を開催し、それに基づき当時委員であった私とディアコヌ委員を主幹として「ヘイトスピーチと闘う」一般的勧告35を起草した。起草内容を後押ししたものに自由権規約委員会の表現と意見の自由に関する一般的勧告34とラバト行動計画がある。

一般的勧告35の内容
 一般的勧告35のパラ7は直接的および間接的ヘイトスピーチを挙げている。間接的としたのは趣旨や対象を隠して行われるヘイトスピーチがあるからだ。ヘイトスピーチはさまざまな形態をとる。口頭、印刷、電子メディアを介したスピーチ、また言葉以外の表現手段、例えばシンボルやイメージを介したものがあり、スポーツ競技など公共の場でのジェスチャーなどが含まれる。
 条約が人種的ヘイトスピーチとして禁止しているのは人種差別や憎悪の煽動そして人種優越思想の流布である。さらに一般的勧告35のパラ10は、特定の集団の尊厳や平等を否定したり、価値を貶めるスピーチを挙げている。ここで重要となるのは気分を害する発言と人の尊厳と平等を損なう発言の区分である。国際法では前者はヘイトスピーチの範囲に入るときと入らないときがあり、後者はヘイトスピーチとして分類される。ドイツでは公に人種憎悪を煽動することや人の尊厳を傷つけることを禁止している。ドイツ憲法において人の尊厳は重要な価値を与えられている。
 パラ9は人種差別禁止立法とヘイトスピーチに関する立法を分けて考えてはならないと述べている。ここでは、ヘイトスピーチに効果的に対応するために最低でも人種差別禁止法を作ることであり、二つは密接に関係しているとしている。
 条約第4条は自動執行力をもたない。たとえその国が憲法や国内法に条約を取り入れているとしても、ヘイトスピーチについては4条であげる行為等を明示的に禁じる法律を作ることが求められる。一般的勧告35では刑法は重要な位置を占めているが、それが唯一ヘイトスピーチと闘う方策ではないことも示している。刑法の他に、民法、行政法、カウンタースピーチ、教育などが果たす役割がある。このためヘイトスピーチと闘う国家的戦略は複層したものとなる。
 パラ14はジェノサイドや人道に対する罪の否定や正当化について述べている。ベルギーやフランスではホロコーストや人道に対する罪の否定は刑法の対象となっている。これについて委員会は慎重な立場をとっている。その否定が特定の人種に対する暴力や憎悪をもたらす場合は対象にすべきであると考えている。
 パラ15はスピーチが行われたときの情況の判断も重要であるとしている。同じ発言でも、ある情況においては危険でなくとも別の情況においては危険な発言となりうる。多くの国際組織はその発言が招く社会的危険性を判断のもとにしている。これは発言自体は憎悪ではなくとも、話し手が導こうと意図している結果が憎悪の煽動であったり社会的に危険な場合があるからだ。国によっては特定の結果を招く意図があったかどうかには関係なくヘイトスピーチを規制しているところもある。
 また、発言が行われたときの経済的社会的風潮はどうであったのか、特定の集団に対する差別的構造が存在するのか、その発言によって情況がさらに悪化されていないかなどが判定の条件となる。
 条約第4条は思想の自由や表現の自由を無視しているわけではない。事実、5条において思想や表現の自由の権利を保護すべきであると規定している。一般的勧告35は、4条にそって法律を作ったり適用する場合、思想および表現の自由に相当の注意を払うよう求めている。

ヘイトスピーチ規制濫用の禁止
 パラ20は、ヘイトスピーチ規制が政治的な抗議やマイノリティ集団による正当な権利行使の制限に使われる危険性について述べている。ヘイトスピーチの規制は曖昧な形で行われてはならないし、社会的抗議を抑圧する口実に使われてはならない。表現の自由の制限は真にヘイトスピーチの制限だけに使われなくてはならない。
 ヘイトスピーチと自由なスピーチとの区別の判断が求められるが、その場合の司法の役割を述べているのがパラ18である。独立、機能していて、国際人権に精通した司法が判断をしなくてはならない。

教育が果たす役割
 ヘイトスピーチ防止のための教育も必要だが、裁判官や弁護士などの法律家や公的機能を担う人びとへの国際人権基準のトレーニングも強く求められる。最近では多くの国々で裁判官に対するトレーニングが行われている。日本のように国際基準を裁判で直接援用することが難しい国は決して少なくはないが、その場合は人種差別禁止やヘイトスピーチ禁止の国内法を制定して裁判官が使えるようにしてはどうだろう。
 さらに一般市民、政治家、公務員、そしてメディアが国際人権基準を理解することが求められる。特にメディアにおいてはこれら基準に沿った倫理規範や自主規制が求められる。例えば、ある特定の用語は使わない、あるいは犯罪報道において容疑者の国籍を明らかにしないなど、メディア自らによる倫理規制がある。スポーツ界でも倫理規制は求められており、国際サッカー連盟(TIFA)は実践している。
 パラ38は国内のマイノリティコミュニティに関する民族的データを委員会に提出することを求めている。これはヘイトスピーチに関する取り組みだけではなく人種差別全体に取り組む上で重要であり、日本政府にも求められている。
 一般的勧告35を起草した目的の一つは4条留保撤回を促すことである。ヘイトスピーチは表現の自由と表現規制の間の問題ではない。ヘイトスピーチは被害者の表現の自由を奪う可能性をもつ。一方の表現の自由が他方の表現の自由を破壊する可能性をもつ。パラ29は表現の自由は社会におけるマイノリティの不均衡な立場を是正するものであり、理解と寛容を促進するものであるとしている。

日本報告書審査について
 先日行われた委員会による日本報告書審査について少し述べる。まず、条約委員会の役割は政府批判ではなく、政府による人権課題解決の取り組みを促進することにある。総括所見には委員会の見解と日本政府の見解が一致しない点がいくつかあった。その一つが4条留保の維持であり、第1条にある人種差別の根拠の理解である。日本国憲法14条の差別事由には民族的、種族的、皮膚の色は含まれていない。憲法や法律にこれら根拠を含まない国は他にもあるので、日本だけが特異ということではない。人種差別禁止法の制定も促された。世界のほとんどの国には関係する法律があるが日本にはない。日本は世系に関しても保守的な立場をとっている。委員会は日本政府が部落民を条約の範囲から除外していることを遺憾に思っている。その他、アイヌ民族、琉球・沖縄、在日コリアン、移住者など日本におけるマイノリティコミュニティに関してさまざまな勧告が出された。戦時下の「性奴隷」すなわち「従軍慰安婦」の問題についても勧告がなされ、委員会と政府との見解の違いがはっきり表れた。日本政府はこれら問題に関する委員会の勧告を慎重にみていくと述べているため、今後注視していくべきだ。