しきじのいま、そしてこれから―世界・日本

2014年7月3日に開催した第23回ヒューマンライツセミナー「しきじのいま、そしてこれから-世界・日本」は400人以上の参加を得ることができた。基調報告者である大阪教育大学の森実さんの報告の概要をここに紹介する。
森 実(もりみのる)
大阪教育大学教授

国際識字年は大きな引き金
1990年は、国連が定めた国際識字年であった。その前年1989年に、大阪で国際識字年大阪推進連絡会を立ち上げ、パウロ・フレイレを招いて大阪で集会を開催した。フレイレは、世界で識字運動の父と呼ばれている。大阪に来たフレイレには識字学級にも訪問してもらった。識字学級の学習者たちは自分たちの生い立ちを綴った作品を読んだ。障害児を育てているフィリピン人のお母さん、子どもの頃芸者に売られたという女性、そういう話を聴きながらフレイレは何度も「ビューティフル・デイ」とつぶやいていた。彼は世直しと文字の読み書きを学ぶことを合体させて進めようとした人である。その考えが大阪でも実践されていることを発見してたいへん感激したと感想を述べた。わたしにとってこのときが、日本の識字と世界の識字のつながりを実感した最初だったかもしれない。
 このときに結成された国際識字年推進連絡会は、識字・日本語連絡会と名称を変えて、現在まで続いている。識字学級、夜間中学校、日本語教室などがつながって活動をしている。

識字がもたらすさまざまな出会い
 その後、いろいろな国に行って、識字の場に立ち会うことになった。
 1990年、「識字と平和」をテーマにインドネシアで開催された国際会議のときには、刑務所に入ってそこで行われている識字学級を見学した。明るい刑務所だった。世界各地でも刑務所内で識字が行われているが、それはとても重要なことだ。受刑者の中には子どもの頃に勉強する機会がなく、大きくなって安定した仕事に就けなかったという人も少なくない。インドネシアの刑務所では、そうした受刑者に読み書きを学べる場を提供していこうと、識字学級が開かれていた。
 このインドネシアの会議で、韓国からの参加者と知り合った。その人たちとの交流をきっかけに日韓で識字交流をすることになった。1991年にソウルで、同年の年末に大阪で、その後、大邱(テグ)そして川崎で交流事業を行った。大邱で交流した時、韓国側の事務局長的な立場にあった若手の男性がプログラム終了後の懇親会で「私は1991年のころ、日韓交流に反対だった」と言った。「韓国の識字問題は日本の植民地支配の結果だ。日本が原因を作った問題の解決になぜ日本との交流をするのか」と上司に言ったそうだ。3回交流をして、日本にもいろんな人がいることが分かったと打ち明けてくれた。また、川崎市での交流会の時、韓国の識字協会の会長が日本語でスピーチを始めた。「韓国から一緒に来た人も含め、私が日本語をしゃべるのを聞いた人はいないでしょう。私は戦後、日本語をしゃべったことがなかった。押しつけられた言葉は二度としゃべらないと誓った。日韓交流も最初は気が進まなかったが、参加する中でいろんな日本人がいることを知った。川崎に住む韓国人をたくさんの日本人が支援してくれている。そう思った時、日本人とコミュニケーションをとりたくなった。けれども会議の言語の英語を私はしゃべれない。私に残された道は唯一日本語をしゃべることだった。生まれて初めて自分から日本語をしゃべりたいと思った。だからしゃべります」と言った。そんな識字の国際交流だった。

日本で何をしてきたのか
 私は被差別部落に住んでいる。私の地区にある識字教室に1985年、30歳の時から20年間ほど通った。いろんな人が通っている。ある学習者が教室に通うようになったきっかけは署名だった。「駅前で署名を集めていた。何の署名なのか話を聞いて私もしたくなった。しかし読み書きができないため、『バスが来たので』とごまかしてその場を去った。悔しかった。協力したかったのに、できなかったことが悔しくて識字教室に来た。」
 識字学級で私が最初に担当した50代の男性は、会社のQCサークル(品質管理向上のための社員間の活動)の司会が回ってくるたびに、報告書が書けないので、家に帰ってお兄さんに書いてもらっていた。幼い頃の病気と貧困とで小学校にほとんど通えなかった。読み書きが十分にできないため、お兄さんに代筆してもらっていた。「自分で書けるように」と、識字学級に通い始めた。
 印象に残るエピソードはたくさんある。八尾市だけではなく、他の地域でもさまざまな形で識字学級が行われている。

海外から学ぶ
 海外の教室を見学するチャンスもあった。カンボジアを訪問したとき、ガイドの人に識字学級を見学したいとお願いをしたら、その人の故郷の学級に連れて行ってくれた。そこで、学習者に「皆さん、何が必要ですか?」と尋ねたら、「仕事をください」と返ってきた。読み書きを学んでも仕事がないと生活が改善されない。読み書きも大事だし、世直しも大事。自分たちのお腹を満たす読み書きが必要なことをそこでも実感した。
 去年までの3年間、JICAで成人識字をテーマにした研修を受け持った。研修生はラオス、ウガンダ、イエメン、タイなどから来ていた。研修はタイで2週間、日本で3週間行った。タイでは読み書き教室を訪問した。高地にすんでいるアカ族の村では、コミュニティラーニングセンター(CLC)に、大人だけでなく子どもたちも集まり読み書きを学んでいた。コミュニティラーニングセンター(CLC)というのは、日本の公民館などをモデルに世界各地で展開されている施設である。
 チェンライの識字教室にはミャンマーからの若者がたくさん勉強に来ていた。彼らがタイで仕事を見つけるにはタイでの中学校卒業資格が必要である。その資格を取るための識字学級、エクィバレンシープログラムもあった。エクィバレンシープログラムとは、義務教育を終了するのと同じ資格を取れる識字プログラムである。
 世界的に言えば、海外からの人たちが移り住んだ国や地域の「よみかきことば」を学ぶことも識字として取り組まれている。日本で言えば、日本で生まれ育った人が学ぶだけではなく、海外から日本に来た人が学ぶことも識字の範疇にはいるということになる。
 タイでは環境問題と識字を組み合せて教えているところもあった。タイは、持続可能な開発のための教育に熱心な国の一つで、それを取り入れていた。
 JICAの研修生と大阪の識字学級に行った時、「ここで話を聞いていると国に帰ったような気がする」「皆さんは私のお母さんみたいだ」と言っていた。
 このような国際交流の中で活動のヒントをたくさんもらった。

識字・これからどうする
 重要なのは、識字を通して世界とつながれるということだ。識字を視点に据えることによって、グローバル化の意味や、情報化の意味が浮かび上がる。日本国内でも、これまで以上に識字が大切になってきているはずだ。
 2011年、大阪市内の識字日本語の学習の場が減らされる問題を前に、関係者が集まって知恵を絞った。今、そういう動きがあちこちで起きている。夜間中学は数年前まで全国で34校あったが、横浜で夜間中学が減らされた後、今は31校になった。大阪でも行政が減らそうとする動きがある。それでは困るということで夜間中学校からの提案があり、みんなが集まり集会をした。そこで出た意見をもって2013年、代表団がパリのユネスコ本部を訪問した。日本で識字に取り組んでいる私たちの総意として、国連識字の10年を後10年延長してほしいと要請した。学んでいる人たちのメッセージも届けた。リボンに綴ったメッセージは大きなサイズになった。ユネスコの人に「荷物になりますね」と言ったら「大切なメッセージなので展示する場所を決めます」と言ってくれた。
 識字の学習者が生い立ちを綴ったことによって、歴史や社会の一面が浮き彫りになってくる。その人たちが綴らなければ、泡のように消えてしまったかもしれない。また、識字で学ぶ人たちは、思いがつながるからか、簡単に国境や言葉の違いを乗り越えると実感する。日本で識字を学んでいる人たちは、日本にとっての財産だと思う。