日之出よみかき教室の現場から

菅原智恵美(日之出よみかき教室/大阪市立大学大学院博士後期課程)

はじめに
 大阪市内には被差別部落(以下、部落)における識字教室が現在12学級(20教室)(1)ある。私は2000年からそのなかのひとつである「日之出よみかき教室」に学習パートナー(2)(学習支援者)として参加している。
 本稿では、日之出よみかき教室のこれまでと今を振り返りつつ、日々の教室活動を通じて感じていることを私なりにまとめたい。

教室のようす
 毎週木曜日、ペアの学習者であるAさんが「こんばんは。おなかすいたやろ、はよう食べや」と言って教室に私の晩ご飯を持って来てくれる。日之出地区(以下、日之出)で生まれ育ったAさんは、来年80歳になる。幼い頃は、家が貧しく、家計を助けるために子守りをしたり、マッチ工場で働いたりして学校には数日しか行っていない。教室に来るきっかけは、ひとまわり年上のAさんの姉だった。Aさんの姉は芸者として奉公に出され、学校に行くこともできず、長い間、家族の生活を支えていた。そんな姉が日之出に戻ってきて識字教室の存在を知り、「一緒に行こうや」と声をかけた。40代後半だったAさんは、姉と教室に参加し、はじめて自分の名前と住所を自分で書けるようになった。
 私の教室活動は、Aさんが作ってくれたご飯を食べながら1週間のできごと、またAさんの健康状態やお連れ合いの病気のことなど日々の暮らしのことを中心に話すところからスタートする。そして、自治会で必要な書類や親戚に送る荷物の送り状を一緒に書いたり、幼い頃の話やかつての日之出の状況について話したり、書いたりしている。
 その他にも40年近く識字教室に通っているBさんもいる。Bさんは、兵庫県の小さな部落に生まれ育った。中学を出て、親元から離れて勤めた工場の同僚のことばでBさんは自分が部落出身であると知った。すぐに仕事を辞めて田舎に帰り、部落がなんであるかも知らないまま親を責めた。その後、Bさんは結婚して大阪市内の部落に移り住み、そこで部落解放運動と識字運動に出合った。運動に参加することで部落問題とは何か、子どもをどのように育てていけば良いのか、また、自分自身はどのように生きていくべきなのかを学んだという。そんなBさんは、教室では、生い立ちを振り返り文章にしたり、職場などで感じる差別的なことがらをどのように解決していけば良いのかなど学習パートナーと話したりしている。
 他にも2年前に親の仕事の関係でネパールから渡日してきた10代の学習者Cさんもいる。教室に来た当初は日本語の読み書きも話すこともできなかったので、表情は硬く無口だったが、今では冗談も言いながら笑顔で過ごしている。
 また、40代の学習者Dさんもいる。Dさんは、参加して3年目になるが冬の寒い日も雨の日も大阪市に隣接する市からバイクでやってくる。Dさんの在住する地域にも日本語教室はあるが緊急性がないとして受け入れてもらえなかった。Dさんは、定時制の高校も出ており、文字の読み書きもでき、仕事に必要な資格も取得できるため確かに緊急性はない。しかし、相手に意思を伝える文章をうまく書けなかったり、職場で思うようにコミュニケーションがとれなかったりという不自由さを感じている。Dさんは、幼い頃、両親ともに病気がちで経済的にもかなり厳しい生活を強いられていたことから長期間にわたり施設に入所し、その間学校にも行けなかった。その間学べなかったこと、また自分の抱えるしんどさを解決していきたいと教室に通っている。
 学習パートナーも様々な人が集っている。参加するきっかけは「誰かの役に立ちたい」、「日本語を教えたい」など様々だが、教室に参加し、多様な価値観、課題を抱える人びとと出会うことで「自分自身は、人権問題や社会問題にどのように向き合うことができるのか」を考える機会となっている。
 教室では、学習者の抱える課題を解決するだけでなく、それぞれの生い立ちや現在の暮らしを振り返る対話も大切にしている。心の奥にしまい込んでしまいたいつらかったことや悔しかったこと、嬉しかったことをことばにし、「文集」の作文として書き綴ることも大切にしている。このような取り組みを通して学習者も学習パートナーも自分のことや社会のことを考え、気づき、そして夢をもって前をむいて生きていくことができるのだと思う。

日之出よみかき教室のあゆみ
 日之出よみかき教室は、「せめて住所や名前ぐらいは、自分でかけるようになりたい」「子どもが学校から持って帰ってきたプリントを読みたい」「区役所や病院へひとりで行きたい」といった部落の人びとの切実な願いのなかから1970年5月に誕生した。
 開講当初の学習者は、日之出に暮らす女性がほとんどだった。幼い頃、家が貧しいため奉公に出されたり、靴磨きや家業の手伝いをしたりして学校に行くことができず文字の読み書きができなかった人びとだ。1980年代頃からは、割合としては少ないが日之出や日之出周辺に暮らす障害のある人や外国から結婚や仕事で渡日してきた人が参加するようになった。そして、1990年代後半頃からは、社会状況に呼応するようにして外国から渡日してきた学習者の割合が増えた。現在は、日之出に暮らす60〜80代の学習者と中国や韓国、台湾、ネパールから渡日してきた10〜30代の人たち、日本に生まれ育ったけれども生きづらさを抱え教室にたどり着いた40代の人たちが学習者として参加している。年齢層も課題も異なる人たちが同じ教室でそれぞれの課題に向き合い、学びあっている。
 かつて、学習パートナーは講師と呼ばれ、ほぼ地元の小・中・高校の教員で占められていた。しかし、同和対策事業に関わる法律が失効した2002年以降、地元学校教員の参加は徐々に減り、参加されなくなった。現在は、部落解放運動も識字運動も知らない、また学校教員でもない人がボランティアとして多く参加している。学習パートナーの年齢層も学習者同様30〜60代と異なる。学習内容は、年に一度ペアを決め、マンツーマンでそれぞれの課題にあわせて学んでいる。実際の様子は、上に紹介したとおりである。

さいごに
 教室活動を通じて感じていることを簡単に3つほどあげたい。
 一つ目は、活動拠点についてだ。行政による位置づけが後退を続けており、現在活動拠点としている施設は、2年後には廃止が決定されている。地域で安心して学べる場の確保を早急に検討していかねばならない。
 教室開設当初は、部落解放運動の高揚とともに同和対策事業の一環として開設された。部落解放同盟大阪府連合会日之出支部婦人部(のちの女性部)と学校教員、そして行政職員による日之出よみかき教室実行委員会が中心となり運営していた。しかし、現在の実行委員会メンバーは学習者と学習パートナーのみとなった。活動拠点は、開設当初は日之出解放会館だったが、地区内施設の統廃合が進み、現在は、日之出にある施設「市民交流センターひがしよどがわ」で開設している。しかし、この施設も大阪市の市制改革により、2016年度末には条例廃止施設(3)とされており活動場所に関して不安を抱えているのである。
 二つ目は、教室をまだ知らない学習者・学習パートナーとなる人と教室をつなぐ取り組みの重要性である。先に紹介したDさんのように学びの場を必要としながらも教室の存在を知らず教室にたどり着けない人は多い。これまで以上に教室を知ってもらえる機会をつくっていかねばならないと感じている。
 三つ目は、教室が大切にしている価値観の共有だ。教室では、それぞれの暮らしに根ざした対話を大切にしながら学習をすすめている。そして、その対話を積み重ねることによって人とのつながりを実感でき、生きることを励まし合える場となっていければと願い、活動している。その価値観は識字教室を運営する上でとても大切な軸となるものだと感じているので今後も丁寧に教室参加者と共有していければと感じている。
 課題はたくさんあるが、教室に集う人、そして教室を支えてくれる人たちとのつながりを深めていければ、その課題もきっと乗り越えられると信じてすすんでいきたい。

(1)ここでいう学級は地区数、教室は学習の場としての教室数を指す
(2)大阪市内では、学習者とその学習を支援する人は対等であり、ともに学び合う立場であるという視点から「学習パートナー」という
(3)大阪市の市政改革をめぐる取り組みの経緯や運動は、菅原智恵美 2013年「大阪市における部落の識字活動の未来を求めて」(『部落解放』686号35-45頁にて紹介