「ヘイトスピーチと闘う」国連勧告の意味と意義 -人権教育の視点から

阿久澤麻理子(あくざわまりこ)
大阪市立大学創造都市研究科教授

 CERD一般的勧告35が焦点を当てた人種差別撤廃条約第7条は、教育的アプローチによって人種差別の撤廃に取り組むことを締約国に約束させるものである。
 人権教育について注意しなければならないのは、人権侵害の実効的な救済、そのための法・制度の確立が不十分なまま、国や公的機関がしばしば「人権教育による世論喚起はやっている」ことを「言い訳」にするという点である。だから、人権教育だけが目的化してはならない。教育によって目指すのは、法・制度の整備も含め、人種差別を撤廃する社会である。 一方、人権教育には長期的な効果がある。ゆっくりと、だが、反人種差別の意識・態度をはぐくむのは教育である。特に現段階で、日本には「人権教育啓発推進法」(2000年)があり、人権教育の推進は、国・自治体・市民の責務とされる。このことを根拠に、一般的勧告35の求める教育的アプローチを、教育・啓発の中でも、また市民の自発的学びを通じても、推進しなくてはならない。 一般的勧告35では、偏見と闘い、集団間の理解・寛容・友情を促進し、普遍的人権の原則を広めることを求めるが、中でも、学校における人権教育と、異文化間教育、人種・民族の歴史・文化・伝統についての学びの重要性にまず言及する。また教育政策には多様なステークホルダーを取り込むことが求められている。
 さらに、人権は市民が学ぶだけでは不十分である。市民がいくら権利意識を高めても、人権を実現する「責務の保持者」(憲法や、国際人権の一義的な名宛人)である国、公権力を有する人びとが、それに応えられなければ、人権は「絵にかいた餅」である。だから人権教育では「市民の人権教育」と、「人権を実現する責務の保持者の研修」がセットになる(2011年末に採択された「人権教育および研修に関する国連宣言」にも教育・研修が位置づく)。ただし「人権教育啓発推進法」は、市民の学習については触れるものの、研修の視点は弱い。勧告では公務員、裁判官、法の執行者等の研修を求めていることは重要である。
 ただし日本には、学校での人権教育、国・自治体、その他の機関での人権研修が、普遍的人権や、人種差別撤廃に向けた内容を取り上げているのか、それが国際基準にそったものであるのか、第三者としてモニターする体制がない(日本にはまだ国内人権機関がない)。市民社会の役割とならざるを得ない。
 勧告では、メディアの役割にも触れている。「人権教育のための世界プログラム」の第三段階(2014~2019)では、メディアやジャーナリストの役割が焦点になっているので、こうしたプログラムも併せて活用したい。考え、対話を重ね、自己決定するための基盤は「知る」ことにある。メディアが人権に敏感になると同時に、メディアの自由な報道が保障される社会の確保もまた、重要である。 なお、勧告が「均衡のとれた客観的な歴史表現」の重要性にふれていることが注意をひく。日本の政治家による発言・行動の問題はこの間、メディア等でも報道されてきたが、中学・高校の社会科、地歴公民の教科書検定基準の改正も大きな問題である 。人種差別の撤廃にいたる大切な道筋は、多様な意見を「知る」こと、そこから選び取る力をつけることであるのだから。
 最後に、人権の原則に立ち返ろう。私が持っている人権は、その他の誰もが持つ。人権が普遍的だということは、自分の権利の実現を求めることであり、他者の権利が満たされずにあるとき、それを満たすことを引き受けること、そのための法や制度をつくり、機能させることは、市民の責務である。そのことを主体的に、自律的自由に基づいて引き受ける主体をつくるのが、人権教育の役割である。

(1) 人権教育および研修に関する国連宣言の和文については、ヒューライツ大阪のウエブサイトを参照。http://www.hurights.or.jp/archives/promotion-of-education/post-5.html
(2) 2013年末に示された、義務教育諸学校及び高等学校教科用図書検定基準の一部を改正する告示案では「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解に基づいた記述がされていること」を求める改正が含まれている。