2023年6月2日に開催された同会主催の集会「ヘイトスピーチ解消法7年、関東大震災虐殺100年〜人種差別根絶を目指して」における丹羽さんの報告を要約する。
関東大震災時の虐殺から100年
2009年12月、そして2010年1月および3月に起きた京都朝鮮第一初級学校襲撃事件を皮切りに、新大久保や鶴橋などの街頭において、「朝鮮人首吊レ 毒ノメ 飛ビ降リロ」「良い韓国人も悪い韓国人もみな殺せ」「不逞鮮人追放」などのヘイトスピーチが繰り返された。2016年6月3日公布・施行の「ヘイトスピーチ解消法」は宣言と教育・啓発を中心とした理念法であり、禁止規定もない。規制と被害者救済を担う人権委員会等の機関についても全く明記されていない。最近では、ウトロ放火事件やコリア国際学園放火事件など、差別的動機に基づくヘイトクライムが多発するに至っている。
今年は、関東大震災時における朝鮮人、中国人、社会主義者、労働運動活動家、被差別部落民等の虐殺から100年の節目の年である。歴史的・構造的人種差別の根本原因に迫り、人種差別を根絶するために、関東大震災時の虐殺(ジェノサイド)の背景と原因から深く学び、二度と同じ過ちを犯さないことが日本国家・社会の未来への責任であり、そのための具体的実践が必要である。
当時の時代背景と虐殺の原因
関東大震災が起きた1923年9月当時の時代背景となる朝鮮植民地支配と日本社会の状況はいかなるものであったか。
朝鮮植民地支配に抗し、独立を求めた民族解放運動(抗日植民地戦争を含む)に対する軍事暴力的支配政策が徹底して行われていた。1894年に甲午農民戦争が朝鮮半島で起き、さらには1905年の乙巳条約により、大日本帝国が朝鮮の外交権と内政権をはく奪したことで、翌1906年に義兵戦争が起きる。1909年には、安重根による伊藤博文の狙撃。軍事裁判の中で15項目の糾弾がされた。1919 年の三・一民族解放・独立運動に対する大日本帝国による徹底した弾圧につながる。
教育政策を中核とする同化・皇民化政策(文化的ジェノサイド)も徹底してなされていた。また、朝鮮植民地期の経済政策として、産米増殖及び植民地工業化と連動した大日本帝国の近代経済立国化(富国強兵論)が進行していた。
注目すべきは、日本のすべての師団(皇軍)に朝鮮派兵の経験があり、民族解放運動や抗日独立戦争を弾圧していた経験があったこと。また、関東大震災以前に、日本の「郷土部隊」の多くが朝鮮民衆への軍事暴力の行使を経験していたことである。
加えて、1918年の日本史上最大の社会運動としての米騒動の勃発、1922年の日本共産党結成、「大正デモクラシー」と称される民主主義運動の高揚などに対して、内務省は危機意識をもっていた。
関東大震災での虐殺の経過
そのような時代背景のもと、1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生した。震災による死者数は約10万5000人といわれている。その時、朝鮮人をはじめ中国人、社会主義者や被差別部落民はどのように虐殺されたのか。
震災当初から警察は朝鮮人に関する流言・誤認情報を流し、「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気を付けろ」と、民衆に警戒を促す。9月2日、政府は東京市と周辺地域に戒厳令を施行。9月3日、内務省警保局長が各地方長官に以下のような打電を発す。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したが故に、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加えられたし。」
当時の内務大臣の水野錬太郎は、三・一独立運動後に朝鮮総督府政務総監を経験しており、当時の警視総監の赤池濃もまた、朝鮮総督府警務局長の経験者で、二人は共に朝鮮における独立運動、抗日運動の歴史を知る人物であった。
軍隊及び警察、憲兵に加えて、民衆(自警団)による虐殺、性暴力、メディア(郷土新聞など)の扇動が繰り広げられた。
9月2日、内務省より埼玉県・郡役所を経由して各町村に対して「不逞鮮人暴動に関する件」という通牒が発せられる。その多くが朝鮮への出兵経験者である在郷軍人会、さらには青年団や消防組などが関東各地で1500もの「自警団」を結成、虐殺の中心となった。
それまでに蓄積されていた大日本帝国国家・社会の朝鮮人民に対する恐怖心、蔑視観、危険視観、偏見、憎悪。そして米騒動や大正デモクラシー、日本共産党の結成などへの危機意識から、政府は日本の民衆の政府に対する反抗を朝鮮人に向けさせていく。
甘粕正彦陸軍憲兵大尉と部下が社会主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、甥の橘宗一を絞首で虐殺した「甘粕事件」(9月16日)、騎兵第13連隊の兵隊が日本人労働者や社会主義者の少なくとも10人を虐殺した亀戸事件(9月4日)、香川県の被差別部落から行商に来ていた一行15名の内、2歳、6歳の子どもと臨月の女性を含む9人を虐殺し、利根川に投げすてた福田村事件(9月6日)などが起きている。
日本国家・社会の対応
国家による虐殺の事実は隠蔽され、軍隊・警察の犯罪は不問にされ、自警団の責任は転嫁された。現在に至るまでなお日本政府による公式謝罪、補償、真相究明、責任者処罰は行われていない。参考までに、「日弁連 関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(2003年7月)では、政府に対して、虐殺の責任を認め、被害者遺族に謝罪すること、虐殺の全貌と真相を調査し、原因を明らかにすることを勧告している。
最近では、関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文の送付を中止した小池東京都知事をはじめ、公権力者、学者、レイシストらによる歴史修正・改竄が深く、広く浸透している状況にある。
戦後の外国人法制の特色
日本政府は敗戦直後に果たすべき植民地支配責任や戦争責任を放棄し、東西冷戦によってそれを封印した。戦後補償法制をあえてつくらなかったのである。
同時に旧植民地出身者とその子孫の日本国籍を喪失させ(1952年4月28日)、他の外国人と同様に出入国管理体制に組み入れ、日常的な管理対象者とした。外国人及び民族的少数者の人権基本法や人種(民族)差別禁止法は今もなお存在していない。
未来への責任と連帯
ドイツ敗戦40周年にあたる1985年5月8日、ドイツ連邦議会においてヴァイツゼッカー大統領は、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」という「荒れ野の40年」と題する演説を行った。
日本では、同じ1985年の8月15日、中曽根首相が「戦後政治の総決算」をスローガンとして、「国家国民は汚辱を捨て栄光を求めて進む」という演説を行い、同年、靖国神社に公式参拝を行なっている。
植民地支配責任と戦後も継続する植民地主義政策による歴史的・構造的人種(民族)差別に向き合い、歴史認識の深化とともに、脱植民地主義、反人種差別、脱冷戦と多民族・多文化共生社会の構築に向けた人種差別撤廃法を含む外国人・民族的マイノリティの人権法制度を確立し、すべての人間の尊厳の尊重と平等を基盤とする社会意識を創り出す必要がある。
関東大震災から100年の節目の年、発生時に犯された国家と民衆による在日朝鮮人、中国人、被差別部落民、社会主義者、日本人労働者などへの虐殺の歴史的事実を深く反省し、二度と同じ過ちを犯さないために、ジェノサイドを防止し、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムを生み出す根本原因を取り除く必要がある。
21世紀の国際人権・人道法の国際的潮流である脱植民地主義、反人種差別、ジェンダー平等、東アジアの脱冷戦の実現に向けて、国内人権機関の設立と個人通報制度の批准を含めて、新たな外国人・民族的マイノリティと移民・難民に関する人権法制度を構築する実践活動は、日本国家・社会の未来への責任であり、真の連帯と信頼を生み出す条件でもある。
●要約:川本和弘