ネパールのダリット女性と暴力

藤倉 康子

京都大学人文科学研究所、日本学術振興会特別研究員

 

西ネパールの片隅で

南アジアでは、グローバル化、民主化が進展しているが、社会経済的格差や政治的対立の問題は深刻化しており、民族・カースト・階層・宗教などによる諸社会集団の共生と調和がめざされている。ネパールでは、1990年の「民主化」以降、1996年のネパール共産党(毛派)による「人民戦争」開始から2006年の紛争終結、さらに2008年の王制廃止と連邦共和制への移行という激動の時期を通じて、諸カースト・民族・地域集団の権利、マイノリティの社会的包摂が大きな政治的課題となってきた。

ネパール西部のバディ・コミュニティは、ネパールのさまざまな社会集団の中で差別の対象となってきた「不可触民」、そのなかでも最下層に位置づけられ、「売春を伝統的生業とするカースト」として知られてきたが、1990年代以降、歴史的差別撤廃と社会に認められる結婚・家族生活をおくるための法的権利要求運動がすすめられてきた。バディ・コミュニティにおける売春は、1980年代後半、世界保健機関(WHO)やグローバルマスメディアが「HIV/AIDSはインドからネパールへ売春婦と移民労働者によって入ってくる」と予測したことから大きな社会問題としてとりあげられ、 地域住民の間で新たな形態の差別、いやがらせがはじまるとともに、女性や子どもの人権、市民権、財産権などをめぐり、はげしい議論がひろまるきっかけとなった。

近代国家形成と芸能集団

バディの祖先は数百年前北インドから移住してきたといわれており、女性は踊りや歌、男性は太鼓づくりや漁をして生計をたてていた。18世紀の国家統一以前、今の西部ネパールにあたる地域には小王国がいくつもあり、バディの女性たちは踊り子や歌い手として宮廷や大地主に仕えるようになったが、ネパール近代国家形成における政治体制の変遷、土地所有制度改革にともない、バディの人びとは小王国の宮廷や大地主からの庇護を失った。同時に、ここ数十年における近代化、都市化の影響で伝統芸能による収入の道も閉ざされ、バディ・コミュニティでは徐々に女性の売春による収入に頼るようになってきた。

ネパールにおいて公的にカースト制度が導入されたのは、1854年にできたムルキアイン法が様々な社会集団間の関係を民族、カーストグループごとの浄・不浄の慣習によって規定してからであるが、1959年の憲法でカースト制が廃止されてからも、実生活においては、元不可触カーストの人びとに対する差別が続いている。バディは、ムルキアイン法においては、最低カーストの「奴隷化可能な不可触民」として規定されていた。

売春廃絶運動とコミュニティ再生

インド・ネパール国境近くに位置する西ネパール最大の街として発展したネパールガンジのバディ・コミュニティは、1980年代にはいわゆる「赤線地区」とみなされるようになり、1990年代なかば、警察の取り締まりや地域向上委員会による売春廃絶運動により、多くの人びとが家から追い出されたり暴力をうけたりした。

1993年代に「女性への暴力」に関する国連宣言が採択され、そのなかに人身取引や売買春に関する基準も含まれていたが、それがネパールに導入された際、バディの女性は被害者としては認められなかった。メディアの報道で、インドの売春宿に売られた少女が「被害者」として認識されるとともに、それとのコントラストとして、バディ・コミュニティでは、女性が自らすすんで売春をしている、というふうにスキャンダラスに報じられるようになった。

こうした世論の高まりのなか、ネパールガンジでは、1996年2月、「薬物・売春撲滅委員会」によってバディ住民を追い出すためのキャンペーンがはじめられた。この委員会は、郡庁や警察にも支持されていたため、バディ住民は警察に助けを求めることができなかった。売春をしていた女性たちは警察に勾留され、高い保釈金を要求された。

家を追い出された女性32人がカトマンズに行き、内務大臣に面会したが、事件は解決せず、多くの女性たちとその家族は、親族を頼って近隣の郡に移住した。この売春廃絶運動は7ヶ月程続き、その間、委員会のメンバーが通りを見張り、家に入る人を制限した。バディ住民の代表が、委員会のメンバーと弁護士をとおして交渉し、売春をなくしていくことはバディの住民たちの希望でもあるということを訴えて理解をもとめた。今後はこの地区で売春がおこなわれないようにすることを正式な書面で約束し、その後しだいに住民たちがもどってきた。

出生登録・市民権証取得運動

父母が正式な結婚をしていない場合、子どもは父親に認知されないことがほとんどであるが、ネパールの法・行政制度では父親の名前がないと子どもの出生登録の申請が困難であったため、多くのバディの子どもたちは市民権を得ることができず、公立学校にも入学できないことが深刻な問題になってきた。

2000年代前半、バディの活動家は、カトマンズの法律専門家やダリット活動家と提携し、差別的な法律の改正と行政機関からの公正な扱い、尊厳ある人間としての生活をおくる権利などを求める提言活動をはじめた。彼らは様々な会合で、バディの人びとは長い間、国から差別されており、憲法で保障されている国民としての基本的な権利を与えられてこなかったと主張した。特に、多くのバディの女性たちが正式に結婚できなかったことは歴史的差別であり、父親に認知されなかった子どもたちが法的権利を得られなかったことは、政治的な問題であるとして、国の責任を問う社会運動へと展開させた。

2003年には、最高裁判所にバディ・コミュニティの住民が尊厳ある生活をおくるための権利を政府に対して要求する申請書が提出された。この裁判において、出生登録と市民権証の問題は最も重要な要求の一つとなった。出生登録の重要性が認識されたのは、市民権証の申請と、子どもの公立学校入学時に、出生登録証の提示が求められたからである。

結婚と売春

1960年代から1980年代にかけて、多くの女性が売春により家計を支えたが、一方で、一人の男性との長期的同居により、実質的な結婚・家族関係となる場合も多く、バディの男女間の婚姻も併存しており、金銭的な援助や子の養育などの相互扶助を通して、緊密な親族ネットワークが維持、形成されてきた。こうした社会的、歴史的状況のなかで、多様で流動的な婚姻内外の関係性が生みだされてきたが、正規の婚姻にいたらなかった関係は「売春」と一括りにされ、「家族」としての社会的承認を得ることができなかった。

ネパールにおけるここ数十年の社会変化、そのなかでバディの女性たちがおかれた状況、ということを考えるとき、カースト差別に関しては、様々な形で変容、問題化されてきたが、いわゆる性の二重基準と呼ばれる、女性にはきびしく男性にはゆるい規範に関しては、変化の速度が非常に遅かったといえる。そのため、カーストごとの内婚は維持しながら、男性はカーストラインをこえて異カーストの女性と関係をもつことが容認されてきた。そのなかで、バディの女性は結婚という責任をとらずに長期的関係を続けられる対象としてみられてきたが、ここでも家族形成があったということ、そしてこれはバディの内部の問題ではなく、ネパールの家父長制におけるジェンダーの問題、性規範のアンバランスが背景となっているということは、あまり議論されてこなかった。こういった、カーストラインをこえた再生産領域の階層化のような状況全体の暴力性についても、より深く理解することが求められている。